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なんのための「使い分け」指導だったか

2016年09月07日 | 読書
Volume19~板坂元のことばシリーズ②

 「日本人は興奮したり真剣になったりしたとき、漢語を使わなくなり大和言葉だけを使うようになる」 

 うーん、これは気づかなかった。言われてみればその通り、と深く納得した。

 政治家の例がたくさん出されているが、もっともなことだ。
 「遺憾」「反省」「認識」など、よく答弁の際に使われる漢語では、意味は通っても、現実味に欠けていることを、誰しもが思ってしまう。

 確かに、抽象度が高いことは具体性が乏しいと単純に考えられるわけで、謝罪説明などの場合は、やはり「目くらまし」効果があると言えよう。



 話し言葉における漢語、和語の使い分けは、それこそ小学校から習っているはずである。
 そのことと、現実に起きている現象を重ねてみると、日本人とは、公的な場での真剣味が足りない、いや体裁をつくろうことを一番に考える国民なのかもしれない。

 「使い分け」という指導を長く続けてきたが、現実と照らし合わせると、それはなんのためだったか、今さらながら疑問を持ってしまう。