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土俵を見る目が変わる

2016年09月11日 | 読書
 『女はなぜ土俵にあがれないのか』(内館牧子  幻冬舎新書)

 この新書が出たのは、ほぼ10年前。
 この話題が出た経緯も、その後の相撲界のいろいろな騒動も結構知っているつもりだ。自分自身、ここ数年相撲への興味が高まっているからということもある。
 著者が大学院で学んだことを基にしているので、正直やや難解な点もあったが、それ以上に興味深い箇所が多かった。

 さて、この本のキーワードというか、結論といってもよい言葉は1つである。

 「結界」


 思えば、この言葉を強く意識したのは今から20年ぐらい前だったろうか。
 野口芳宏先生が秋田大学の夏季集中講座にいらして、学生に交じって出席させていただいたときだ。
 「紙芝居」の講座であった。紙芝居の舞台について「結界」と説明されたことが強く印象づけられた。



 「結界」は、宗教上で強く意味を持つことと思うが、この意識は私たちの生活全般に深く沁み込んでいる歴史がある。
 それを知らず知らず、いや知っていても単純に(例えば、グローバルなどという言葉に惑わされて)壊してしまっている現状はないか。
 そんな危機感を抱かせる著でもあった。

 書名に対する著者の考えは繰り返し述べられているが、その背景となる、いわば「相撲ミニ知識」のようなことが実に面白かった。
 そして、それらは相撲の本質に迫っているものだと思わせてもくれた。
 いくつか紹介する。

◆諸説はあるとはいえ、「舞」という字がつく格闘技なのである。

◆「四股名」と書くが、本来は「醜名」なのである。

◆かつて、土俵入りは最強の大関だけができるものであり、その資格を持つ最強の大関を「横綱」と言った。(略)「資格」の名称ではなく、最高の「地位」ではなかった。


 それらを超えて、この本で知った最も大きな衝撃は「土俵」についてだった。

 著者もその現場を驚きの気持ちで見たことを書いていたが、大相撲が行われる国技館の土俵はそれ以外に使われないという事実、つまり毎回壊され、作り直されていること、しかも全てが人力で…そのことを知ると「結界」という意味がより重く感じられた。

 今日から秋場所。
 土俵を見る目は、以前と変わっている。