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「眺める」目が生むもの

2016年09月19日 | 読書
 『それでも前へ進む』(伊集院静  講談社)

 昨年の元旦に読んだ本を再読した。その日のうちに感想メモをこのブログに残していた。「少し勾配のある道」とは、新年にふさわしい決意表明だったか。しかし、実際には「ゆるゆると下り坂」という現実だったのかもしれない。言っても詮無いことだけれど、少しだけ反省の念にとらわれる。「それでも前へ進む」か。


 今さらながらだが、この作家のよく使う言葉を見つけた。「眺め」である。JR東日本のCM誌連載であり、「車窓にうつる記憶」が章名なので、使いやすいだろうが、今回は思った以上に目についた。「美眺」という表現も繰り返し使われていた。ここで一つの仮説、「眺める」がこの作家の本質を表しているのではないか。



 「眺める」は明鏡国語辞典によると三つの意味を持つ。「遠くをのぞみ見る。また視界に入るもの全体を見渡す」「その方に視線を移す。見やる」「物事やその成り行きを見る」…つまり、一定の事物に対して少し距離感を持ちつつ、継続的に観察しているイメージが感じられる。一面ではドライであるが、眼差しは強い。


 全著作とは言わないが7,8割は読破している。かなりモチーフが似通っている作品も目立つ。家族、特に父親との確執。弟の死。美術や野球への関心。そして二度目の妻の死…それらから目を離さずに眺めているから生まれてきた作品群だったと思う。さらに「眺めのいい人」というエッセイもあった。これも典型的だ。


 大事なことを見分ける感性が必要だし、その思いを強靭に持ち続け、言語化する行為に長けている作者だ。「眺める」という動詞は一般的には「ぼんやり」という表情が伴う。ただそれはおそらく「効率性」「経済性」という観点に照らし合せた印象ではないか。眺めている目は、実は何かを生み続けているのではないか。