すぷりんぐぶろぐ

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自分らしさを捨てれば独自になる

2019年02月22日 | 雑記帳
 録画しておいたNHKBS「最後の講義」を観た。登壇したのは、みうらじゅんいわずと知れた「サブカルの帝王」である。「マイブーム」「ゆるきゃら」等の生みの親であるが、正直今までは軽く見ていた。しかし今回の講義でぐっと惹きつけられた。さすが、「先生」と慕う有名人が多いわけだ。敬服したと言ってよい。


 その発想に驚いたのは、中学生の頃自分の日記を母親にこっそりと見られた時のことだ。普通であるならば、猛然と抗議するもしくは置き場所の変更ということだろうが、みうらが思ったことは「読み手がいる」。そこから、その日記に「盛る」ことを考え、その実現を目指したという。これ以上の前向きさはそうない。


 名づけや言葉に対する感性は独特である。「自分らしさをなくす」という今回の内容の一つに対するアプローチに笑った。例えば仕事のなかで自分らしさを考えた時に、それを音の響きから「自分かしら」に変え、さらに意味の伴わない「自分さしら」に移っていく。この連想・妄想のなかで個は解放されていくようだ。


 傍目からみたら「どうかしている」思考や行動を重ねていくのは容易ではない。それを自ら「DS」と命名し、キーワードに仕立てるあたりも笑いながら納得した。自虐めいてはいても、卑屈めいた部分を一切感じない。時折読む週刊誌連載の書き出しは、常時「人生の3分の2はいやらしいことを考えてきた」である。


 取りあげたなかにアパートか何かの「空あり」という看板があった。仏教を重要なテーマとしているみうららしい目の付け方だ。この言葉を「クウアリ」と読み、「ナイことがアル」その矛盾表現?について滔々と話す。さらには「空なし(クウナシ)」という深い境地にも話が及ぶ。自分らしさを捨てれば、独自になる。