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手助けになる根を持つ

2019年02月15日 | 読書
 若い頃、「先生は哲学者だな」とある方から言われて、面食らったことがある。大学で専攻したわけでもないし、そもそも哲学の素養すらない。学級通信などに理屈っぽいことを書き散らしていたからかなあ。しかし読書歴を振り返ると、哲学者の本(最近のごく簡単な著)も結構読んでいることに気がついた。憧れかな。


2019読了16
 『魂のみなもとへ』(谷川俊太郎・長谷川宏  朝日文庫)


 「詩と哲学のデュオ」という副題がある。御終いまで読むと、谷川の詩を長谷川と編集部で選び、それに長谷川が散文を付けた形だとわかった。詩と哲学の違いなど考えてみたこともなかったが、谷川の言では(谷川の父は哲学者だ)、必ずしも対立するものでもない。「考えや表現の根っこ」をどこに持つか、であろう。


 「哲学者は論理を武器とするのに対して、詩人は論理によっては、少なくとも通常の意味での論理によっては到達出来ないところに行こうとする」と谷川は書く。だから、長谷川が選んだ詩に文を「つける」という作業は「対立と同調」という言葉に集約される。本来、読むとはそういう行為なのかもしれないと気づく。


 あとがきで知ることになったが、この著のテーマは「生・老・死」であった。谷川の詩は初期作品「うつむく青年」「鳥羽」など全部で三十篇。テーマのどれかに当てはまる。最終篇で取り上げられたのは、『生きる』(あの有名な詩と違う)であり、長谷川はそこで繰り返される「生かす」を挙げて、こう付けてみせた。

 歳をとることは、「生きている」という実感が少しずつ「生かされてある」という実感にとってかわられることかもしれない。人といっしょに、物といっしょに生きていること。



 これはありきたりな「感謝」などという概念とは異なる。「生きる」にある能動性とはまた別に、一歩引いたところから見つめることから生ずる、周りからの視線や気配と共振する思いとでも言えようか。「生かされてある」実感を持てれば、それは結構な人生と言えるのではないか。詩や哲学が傍にあることは、手助けになる。