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キャラがたつ教師の条件

2007年01月20日 | 読書
 家本先生は『子どもが育つ教師の言葉 30のアプローチ』(たんぽぽ出版)のまえがきに、こんな文章を残しておられる。

  教師も新卒時代に基礎・基本を身につけ、キャラがたつにつれて創造的実践を試みつつ成長するものである。

 んっ「キャラがたつ」。
 漫画やドラマの世界で使われる言葉のように思っていた。個性、性格・性質が際立つという意味でとらえてもよいだろう。
 それにしても、教育系の論文では目にしたことのない比喩表現である。

 「教師のキャラがたつ」「キャラがたっている教師」ってどういうことなんだと思ってしまった。
 全国区の実践家の顔がすぐ思い浮かぶが、身近な教員の中にもそう言えば、と思う人はいる。個性の強さが表面化している方々と言えばよいか…
 しかし、その解釈でいいものか。

 家本先生は「キャラがたつにつれて創造的実践を試みつつ」と書いている。
 これは教員であれば逆に「創造的実践を試みるにつれてキャラがたって」と言えそうな気がする。双方向の働きなのではないか、と思う。
 
 教員になる前からキャラがたっている人はもちろんいるだろう。
 しかし、ここで示されているのは「教師としてのキャラ」であり、これは基礎・基本の学びや、子どもたちとの出会い、仲間との交流、そして実践創造などそうした営みの中で作られていくのではないだろうか。

 「キャラがたつ」ということは、一つの物語を背負うという意味も込められる。きっとそのためには、ある程度の歴史や蓄積が必要ということだ。
 ただ単に個性的な言動をするから「キャラがたつ」とは言わないだろう。
 「キャラの一人歩き」との見極めをしっかりしなければならない。