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疑わしきは疑え、ただし観察の目で

2007年01月12日 | 雑記帳
 文教大学の秋山邦久先生の講演を聴いた。

 秋田にいらした方なので、幾度となくお話を聞いているが、軽妙なトーク風に進む中でポイントをしっかり押さえられるので、いつも頷かされることが多い。
 今回のテーマは「児童虐待への対応」。
 切り出しは、こんな問いかけだった。

 対応が始まっているのに、なぜ虐待が減らないのでしょうね

 件数そのものの増加は、対応の拡大による顕在化と受け取ってもいいのだろうが、通告義務のある私たち(つまりセミナーに参加しこの講演を聴いている者)にとって、そんな分析的な見方がいいと思わない。
 秋山先生は、こう言いきった。

 つまり、対応の仕方が間違っている。かかわる人の意識が間違っているということです。

 ここから、意識変革のためのものの見方、様々な手立てが話されたが、いちいち納得できる話であった。
 キーワードはいくつかあったが、この言葉は象徴的である。
 
 疑わしきは、疑え

 早期発見、早期対応が子どもを救うことは間違いないわけで、私たちの常にアンテナを張り巡らす必要がある。ただし、その意識をどのように持ち続けるか、ここは難しいと言える。
 「疑わしきは、疑え」のために、おそらくは今回の一番の強調点である。次のキーワードが登場してくる。

 監視から、観察へ

 悪いところや問題点を探す監視の目と、観察の目は違う。観察の目は変化に気づくことだという。変化には、いいところ悪いところの両面がある。子どもの出すサインに気づくためには、そうした視線を持っていることが必須だろう。
 観察して「ほめる」ことを一つの武器にしない限り、よろいを着られたり、心を閉ざされたりして、益々見えにくくなる現実もあるだろう。

 秋山先生がいつも使われる言葉に「関係性」がある。
 関係性を築いてこそ「ことばを入れる」ことができる。つまり、相手に自分の言うことをきかせる、うなずかせることができるという。
 ただ、そこには信頼は勝ち得ても、相手を信頼しないという冷徹な部分も必要になってくる。虐待の多様な現実は、今までの感覚の切替を私たちに要求してくる。
 
 「信頼関係妄想」に囚われない

 というお話もあった。人間は信頼できるものといった甘い幻想では、現実には太刀打ちできない。クールに現実を見る、テクニックを学ぶことは必須と言えよう。
 しかしまたそれは、「子どもたちを守る、救う」というホットな思いに支えられてこそ可能であることを感じさせてくれたいい講演だった。