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「思想界の巨人」の実感には

2007年01月22日 | 読書
 『ひきこもれ』(だいわ文庫)とは、なんとも刺激的なタイトルである。

 吉本隆明氏の著書である。
 
 ひきこもりの人は、考えること、感じることを人より余計にやっているのです。

 確かにその可能性はある。
 しかし、と思う。
 吉本氏自身がそうした傾向を持つからと言って、現在のひきこもりと簡単に重ねていいものか、と思う。
 ひきこもっている子の多くが、自分自身としっかりと向き合っていると言えるのか、疑問を感じる。こもっている部屋の様子の時代的変化を想像してみるとき「自分で内密をふくらませる」ことの「内密」に、すべて価値があると言っていいものだろうか。

 そして、もう一つ大きく気になる文章があった。

 教室に流れている嘘っぱちの空気を、ぼくは「偽の厳粛さ」と読んでいます

 それは昔、氏自身を苦しめ、そうした空気に耐えられない子が不登校になっているのだと言う。

 いまの学校でも同じようなことが起こっているのだろうと思います

 もちろん、完全には否定しきれない現実である。
 だからといって「偽の厳粛さを乗り越える実践をしなければならない」などという美しい言葉で括ることはできない。
 「偽の厳粛さ」と「集団におけるルール、規律」とはどの程度かけ離れているものなのか、私の頭では読み取れないこともある。
 そもそも吉本氏自身も「くだらないことや嫌なことがたくさんある。学校などというものは適当にさぼりながら何とか卒業するくらいでいい」と、その現実を認めているふしもある。

 制度としての学校には限界があり、それはまた社会の現実の一つでもある。きれいごとでなく、真の意味で「厳粛さ」を感じることも、「偽」だと判断できることも、学校という集団に身を置くことで可能性は広がるはずである。そうあらねばならない。
 
 吉本氏の不登校に対するスタンス「ほおっておけばよい」も、現実を見据えているのだろうか。確かに次の言は魅力的であり、そうあるべきと私も願う。

 不登校の人も、何らかの場所に踏み出していく日がかならず来ます

 踏み出していく場所は、社会そのものかもしれない。
 しかしもはや、社会そのものが「病的」傾向が大きい今、どこにその位置があるのか。ひきこもっていれば、それは見えてくるものなのか。
 
 どこかで汗を流したり、傷ついたり、もしかすれば血を流したりしながら、手がかりや足がかりを見つけていくものではないのか、そんな気がしてならない。

 「思想界の巨人」は別にぼんやり見ているわけではないかもしれない。
 実感を大事に語っている。肯ける部分も多い。
 ただその実感は少し世間離れしていて、世間離れできない自分にとっては少し荷が重かった。