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教育の惰性を強化するという厳しさ

2007年01月30日 | 雑記帳
 講談社の月刊誌である「本」で、おもしろい論考を目にした。
 書いているのは内田樹氏(神戸女学院大学教授)。

 「教育に惰性を」がそのタイトルである。

 「惰性」というと、だらだら続く習慣という意が一般的であるが、物理的な慣性という意味もある。後者の意も込めて、内田氏は次のように意味づけている。

 現場にいる人間の個人的資質とはとりあえず無関係に、破綻なく機能された制度のことを「うまくできた制度」と呼ぶのである。(中略)仮にこれを「制度の惰性」と呼ぶ。「惰性が効いている」制度は、多少現場の人間の出来にでこぼこがあっても、それなりに回る。

 そのうえで、教育制度もかくあるべきで、現状のような教員たちの個人的な能力や資質に破綻の主因を求めるのは問題だとしている。
 教育改革はイコール教師の意識改革であるといった言は、ある面で真実をとらえている。
 しかし、そこを核とすることは非常に危ないと感じる。内田氏は、教師個々に関していちいちチェックしていく場にある「査定的な視線」は親も子供たちも共有されると、その危険性を鋭く指摘している。

 教育制度の惰性の強化をするということは、けして改革をしないということではない。数十年前のような安閑な現場にもどるというようなことでもあるまい。
 現状に即してシステムの見直しを徹底して行うということではないか。
 内田氏の次の言をどう受けとめるかによって、現場人の内なる厳しさが問われている。

 教師がどれほど無能でも適性を欠いていても、それによって子どもたちが致命的なダメージを受けないで済む教育制度とはどういうものかという問いを喫緊のものとして引き受けることである。