すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

引き出しに入れ、開封してみる

2007年01月19日 | 読書
『子どもが育つ教師の言葉 30のアプローチ』(たんぽぽ出版)という本を、著者の一人である佐藤正寿先生よりいただいた。

 学校の日常における教師の「指導言」「支援語」を、「受け止める」「評価する」などの7つの場面ごとに例示している。
 小学校低学年向けから中学校向けまで、それぞれの言葉かけの例が載っており、イラストも効果的に使われ、実にわかりやすい形でまとめられている。

 編著者代表として家本芳郎先生の名前がある。
 少しうがった見方をすれば、指導言のサンプル見本のようにも感じる本だが、実は「基礎・基本」としての言葉かけの集約であり、それらはしっかりと身につけるべきという主張がそこに流れている。
 家本先生の巻頭言にも明確に表われていた。
 従って若年層だけということでなく、中堅層にも参考になるはずである。

 読み終わり、何気なく本の帯に目をやると、次の言葉が目についた。

 あなたが子どもたちのかかわりで、ふだん多く使う言葉はどれですか?
 ほとんど使ったことのない言葉はどれですか?

 この問いかけを持って、本を読み通すことで、自分の引き出しに入るボキャブラリーはかなり増えるに違いない。
 これらは「実践の報告」であり、表面的な言葉かけの背景も感じ取れるよう配慮されている。
 目の前の子どもの表情を思い起こしながら読むことで、振り返りが生じ新しいかかわり方の意欲も湧き上がってくるだろう。

 引き出しに入れたあとに「開封」して使ってみることで、スムーズな取り出しにつながっていくはずである。

 さて、自分はどうかと問われれば、もう引き出し自体が渋くなっている状態で…
 そんな情けない自分がとても気になった(いや、気にいった)表現が、家本先生の巻頭言にあった。

国語辞典に頬ずりして

2007年01月18日 | 雑記帳
 三学期に力を入れたいことの一つに、国語辞典の指導がある。
 二学期末の研修時に、全員に構想めいたことを話してあった。
 
 昨日、共通の辞典を購入し、各学級へ配布。
 そしたら、ある学級ではその真新しい辞典に、一人の子が「わあっ」と頬ずりしたとのことである。
「辞典を、そんなふうに愛してもらえるなんて」
と担任と笑いながら会話した。

 しかし、「本当の愛」はこれからである。
 
 国語辞典を実践で取り立てて扱っている著書はあまり多くない。
 辞典を特集にした国語の実践誌なども数えるほどしかない。
 ただ、一様に「辞書慣れ」「とにかく多く引く機会を」ということは出てくるようだ。
 授業のパーツ化、オムニバス方式という形で、毎時間に「辞書引き」を入れている学級も多いようだ。
 数年前、私自身も複式学級解消で、受け持った三年生と一緒に取り組んだ。それなりの成果はあったように思う。

 今後継続的な指導が可能かどうかは、簡単には言えないが、とにかく今までよりは意識して使わせようと申し合わせはしてある。

 子どもが「辞書はツカエルゾ」「引くってオモシロイ」「わかってスッキリ」という感覚を増やし、教師からの指示がなくても手にとることができるようになれば、それは確実に一つの「学力」と呼べるだろう。

 私の役目は、それぞれの学級の導入の一時間足らずの授業であるが、いい刺激を与えられるように努めてみたい。

「風の子」「雪の子」育て!

2007年01月17日 | 教育ノート
 比較的穏やかな天候で三学期が幕を開けた。子どもたちも元気である。
 休み中に職員と雑談した中で、この時期登下校などでやや心配なこともあるという話が出され、そのことを意識しながら書いてみた。


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「久しぶりに大曲から横手までの列車に乗ったら、通学の高校生たちがいました。いやあ秋田の高校生はすごいですねえ。この真冬なのに、コートも着ずに、しかも雪道をチャリンコで行くんですから。」

 先週横手市で行われた研修会の講師であった秋山邦久先生(文教大学)がそう言われました。数年前まで秋田に住んでいた先生は、実態を十分に知っていらっしゃるのですが、その口調はけして皮肉ではなさそうでした。
 今お勤めの大学が埼玉県にあり、積雪3センチで学校は休校になったり、歩いている時に滑って転倒しけが人が続出したりする現状と比べて、そうした見方をなされたのです。

 私たちにしてみれば苦々しい現実で、その行動が彼ら彼女らのプラスにはならないと確信するのですが、考えてみると「寒さ」や「雪」に対する経験が豊富だからこそ、無防備な格好でも雪道を平然と行けるという事実は確かなことです。
 そしてそれはある意味で「強さ」や「能力」とも呼べそうです。

 豪雪地帯に住む私たちは、その環境をなんとか住みやすいものにしようと努力することは当然です。しかし、冬の困難さや辛さに対面し、克服することで、抵抗力をつけてきたことも確かです。
 「自然環境を生かす」とは、美しさに触れて心を豊かにするだけでなく、厳しさを受けとめて心を強くすることも含まれるはずです。
 その意味では何も大人が意図的に組まなくても、十分に厳しい季節が目の前にあります。取り立てて意識しなくても「雪国の暮らしを普通にする」だけで、育まれる力はあるのです。

 三学期初日、雪のちらつく中をほとんどの子が元気に登校しました。ほおを少し紅潮させている子もいます。自ら身体を動かして寒さや冷たさを払おうとする顔は、ほんとにいい表情でした。
 この後、もっと厳しい風雪の日もあり、少し辛く感じる時もあるでしょうが、その繰り返しが「たくましさ」にもつながっていくはずです。安全や安心に気を配らなければいけないのはもちろんですが、そのことはある意味で、子どもの力を弱めることにもつながりかねません。

 今こういう時代だからこそ「子どもは風の子」という昔ながらの言葉に込められている意味を、かみ締めてみたいものです。
 短い三学期ですが、びっしりとやることが詰まっています。変わらぬご理解ご支援のほど、よろしくお願いいたします。
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学習意欲の喚起・持続・安定をはかる

2007年01月16日 | 雑記帳
 「授業成立」に関わるメールマガジンの原稿を依頼され、「学習意欲と授業成立」についてまとめてみた。
 具体性に欠け、また舌足らずな部分も多くなってしまった。
 ただ考えるにつけて、「学習意欲」を単一の形で見てはいけないと思うようになったのは収穫だった。


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      学習意欲の喚起・持続・安定をはかる
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◆学習意欲を喚起し、一時間の授業を成立させる◆
 昨秋、月に1回のペースで外部講師を招いた校内研修を実施した。
いずれも「飛び込み授業つき講話」という形であり、授業をうけた子どもたちにとっても職員にとっても実に充実したセミナーとなった。
 
 飛び込み授業における「学習意欲と授業成立」を考えた場合に、初めて出会う「物珍しさ」や「目新しさ」はとても有利なポイントと言えるだろう。しかし、本校で授業してくださった先生方は、それを生かしながらも明らかに、学習意欲を喚起する原則的なことを示してくださった。

 【教材・教具、課題の選択と提示の工夫】
 【学習者の活動に対する的確な対応と評価】

 10月の講師であった上條晴夫先生は、「大」のつく二字熟語集めをグループ対抗の形でスタートさせた。12月の佐藤正寿先生は、プロジェクターを使った歴史人物クイズから、主眼である「オリンピック」に結びつけていった。11月にお招きした野口芳宏先生は子どもたちの言葉のレベルを巧みに見きわめながら、問いの難易度を調整していった。また、答られずに涙を見せた子へのスキンシップの温かさも印象に残っている。

 授業を成立させるための学習意欲は、大まかに上記二つのことに左右されると言い切ってもいいだろう。
 しかしまた、日常の学校現場における授業成立は、このように断片的に語るだけでは済まされない。単元全体や年間を通した授業成立こそ課題であり、それを支える学習意欲に目を向けることが必要なのではないか。

◆学習意欲を持続、安定させ、授業を成立させる◆
 ここで重視されることは「連続性・追求性・発展性」という点だろう。子ども一人一人の中に、その感覚を持たせられるかが鍵である。そのためには課題設定の工夫に留まらず、学習技能、学習規律といった面も重視しなければならない。さらに個への配慮が継続的になされることも大きい。

 課題や方法の設定、一人一人への目配りにおいて、見逃せない考えがある。市川伸一氏が、『学ぶ意欲とスキルを育てる』(小学館)の中で書かれている「学習動機の2要因モデル」である。次の六つが提示されている。

・充実志向(学習自体が楽しい)  ・訓練志向(知力を鍛えるため)
・実用志向(仕事や生活に生かす) ・関係志向(他者につられて)
・自尊志向(プライドや競争心から)・報酬志向(報酬を得る手段として)

 子どもによって何に動機づけられるか違いがあって当然であるし、発達段階によって変化もすることだろう。教師としては「充実志向」への働きかけつまり学習内容への興味づけが核になろうが、上記分類に照らした様々なアプローチが、長期間の授業成立の支えになるはずである。
 一人一人の志向を見極め、学習計画作成時の配慮や個への助言等を考えてみたい。授業の中で、ノートへの書き込みで、何気ない会話で、例えばこんな言葉かけの使い分けを意識することは有効に働くのではないか。

 「これを学ぶと、ぐんぐん力が伸びてくるよ」
 「これって、○○をするときに使えるよね」
 「○○さんと話し合ったり、作ったりして楽しかったでしょう」
 「すごい、あの難しい問題があっという間にできたんだね」
 「あれができたら、金シールが貼れるよ」

カメに背中を押されてスタート

2007年01月15日 | 雑記帳
 地域の新春座談会に参加した。
 講演があって、隣接している地区にある介護施設長が講師であった。
 学生時代に落語研究会にいたということだけあって、非常にテンポがよくウィットに富んだお話だった。
 (でも参加者の中の高齢者層には少し速すぎたかな?)

 介護に対する考え方が話の中心にあるのだが、様々な寓話が楽しい。
 特に「ウサギとカメ」の話はなるほどと思わされた。

 なぜ、カメはウサギに勝てたのか。

 カメはさぼらずに努力を続けたから、というのが一般的な答となるが、切り口はこんなふうにも置き変えられるんだなあと思った。

 ウサギとカメでは見ていたものが違う

 ウサギは、カメを見ていた

 カメは、ゴールを見ていた


 勝ち負け以前に、何にこだわり、何が強さになっていくのか、実に象徴的な解釈である、と思った。

 講師は「その後の話」を付け加えられた。
 ウサギから「三回勝負だろう」と持ちかけられたカメは受けてたつが、二回目は完全に負ける。悔しくてお母さんに相談し「得意なことを生かしたら」という助言をもらい、三回目はゴールの設定を任せてもらうようにウサギに頼む。あっさりとうけたウサギ。カメは「離れ小島」にゴールを設定し、泳げないウサギに勝った。
ということになるらしい。
 この続きも教訓的である。

 自らの得意を生かしてゴールを設定する

 今日から三学期。
 心して臨みたい。
 

「大人計画」は魅力あふれるネタである

2007年01月14日 | 読書
 行きつけの書店で『12歳の大人計画』(文藝春秋)という本が目にとまった。
 NHKの「課外授業 ようこそ先輩」の記録である。
 先生役は松尾スズキ。知る人ぞ知る「大人計画」のリーダーである。
 テーマは「大人」とある。「大人計画」の松尾が「大人」を小学生相手に教える。おもしろくないわけがないと早速購入した。

 演劇的手法?を入れながらの二日間、計8時間+アルファの授業はある意味淡々と進んだように感じた。
 そして最後まで読むと、このテーマ全体の流れはなかなかだ、使えるぞという考えに到った。
 何より、「別に大人になんかなりたくない」という今どきの子どもたちが「こういう大人になりたい」という積極的意志を示して終わっている(そういう形になっている)ことが素晴らしい。
 この授業の流れは大まかにこうまとめることができる。

 ○「大人」ってなんだろうと考える
 ○身近にいる大人の「大人」「子ども」の部分を考える
 ○身近な大人へインタビューする(宿題)
 ○自分が考えたこととインタビューをもとに、作文を書く
 ○大人のイメージを短い言葉でまとめる
 ○取り上げた昔の歌謡曲をグループごとに歌う
 ○まとめ

 
 教材の役割を果たしているものに「大人アンケート」と歌謡曲「銀座の恋の物語」がある。この内容も興味深い。
 子どもたちのやりとり、つまり子どもの発言に対する松尾氏の対応は、また演劇人独特の感性があるし、難しいと感じながらも子どもたちもぐいぐいと惹かれていったのではないかと想像できる。「大人図」「大人選手権」という食いつきのよさそうなネーミングや独特の図示も魅力があった。

 しかし、何より自分なりの最初の考えを持ち、実際にインタビューし、そこでの確かめや違いを作文にまとめさせたことが、この授業の核になっているように思う。
 この計画をもとに実際に授業化を図るとすれば「生き方教育」「キャリア教育」という枠組みになるだろう。もちろんその場合時間数の吟味や個別配慮が必要であろうが、高学年対象にじっくりと向き合ってみたいネタだなあと、改めて思う。

 「大人計画」は実に魅力にあふれている。

「IT世間」を良くしていかなければならない

2007年01月13日 | 読書
 『他人を許せないサル』(正高信男著 講談社)には、けっこう怖いことが書いてある。

 例えば、ゲームが日常化している子どもについての記述。

 いまの子どもたちというのは、目の前でいじめられている友達がいても、その痛みを感じられない。自分の延長したところかに、友だちという存在を位置づけられない。

 例えば、ケータイで過剰ともいえる「絵文字の浸透」について。

 言葉ではなく、非文字に依存するという発想は、サル化に拍車をかけるものでしかないだろう。

 対談からの引用であるが、虐待、幼児殺害の背景について。

 いつも実行犯は、その地域にいることを深く考えるべきだ。地域社会が持っていた強さが急速に失われ、一番弱い子どもに攻撃力が向いている。

 連日、悲惨な事件の報道が相次ぎ、とらえどころのない不安を感じることがある。その背景に、正高氏の著書のキーワード「IT世間」が横たわっている気がする。
 
 かつての世間というものは、地域限定の束縛を受けていた地縁共同体だったのがいまや、地域的な限定を受けない、リアルタイムに時間を共有できる電脳縁共同体へと様変わりした。
 
 歴史を経て様々な特徴を持つ日本社会文化が、ITに飲み込まれてしまった感のある現状は、確かに便利なことは多いが、それに伴う問題点が非常に多くなっていると指摘する。
 「攻撃性」「無責任」「悪者が良者を駆逐する」…こうした言葉に対応する具体的な例は私でもいくらも思い浮かぶ。しかし、ここに立ち止まっていることはできないと思う。
 結局、日本人ほど「世間の目」を気にする人種はいないようだし、そうなれば「良い世間」を作る努力をすることしかないのではないか。

 正高氏は、今ある「悪弊を取り除く努力」の「最火急の課題」として、次の二つを挙げた。それは無理だろうと決めつけないで、世間のみんなで考えてみなければならない。

 匿名のままでアクセスすることが不可能なシステムの構築

 ネットでメッセージを送る際のマナーとしての修辞法の確立

疑わしきは疑え、ただし観察の目で

2007年01月12日 | 雑記帳
 文教大学の秋山邦久先生の講演を聴いた。

 秋田にいらした方なので、幾度となくお話を聞いているが、軽妙なトーク風に進む中でポイントをしっかり押さえられるので、いつも頷かされることが多い。
 今回のテーマは「児童虐待への対応」。
 切り出しは、こんな問いかけだった。

 対応が始まっているのに、なぜ虐待が減らないのでしょうね

 件数そのものの増加は、対応の拡大による顕在化と受け取ってもいいのだろうが、通告義務のある私たち(つまりセミナーに参加しこの講演を聴いている者)にとって、そんな分析的な見方がいいと思わない。
 秋山先生は、こう言いきった。

 つまり、対応の仕方が間違っている。かかわる人の意識が間違っているということです。

 ここから、意識変革のためのものの見方、様々な手立てが話されたが、いちいち納得できる話であった。
 キーワードはいくつかあったが、この言葉は象徴的である。
 
 疑わしきは、疑え

 早期発見、早期対応が子どもを救うことは間違いないわけで、私たちの常にアンテナを張り巡らす必要がある。ただし、その意識をどのように持ち続けるか、ここは難しいと言える。
 「疑わしきは、疑え」のために、おそらくは今回の一番の強調点である。次のキーワードが登場してくる。

 監視から、観察へ

 悪いところや問題点を探す監視の目と、観察の目は違う。観察の目は変化に気づくことだという。変化には、いいところ悪いところの両面がある。子どもの出すサインに気づくためには、そうした視線を持っていることが必須だろう。
 観察して「ほめる」ことを一つの武器にしない限り、よろいを着られたり、心を閉ざされたりして、益々見えにくくなる現実もあるだろう。

 秋山先生がいつも使われる言葉に「関係性」がある。
 関係性を築いてこそ「ことばを入れる」ことができる。つまり、相手に自分の言うことをきかせる、うなずかせることができるという。
 ただ、そこには信頼は勝ち得ても、相手を信頼しないという冷徹な部分も必要になってくる。虐待の多様な現実は、今までの感覚の切替を私たちに要求してくる。
 
 「信頼関係妄想」に囚われない

 というお話もあった。人間は信頼できるものといった甘い幻想では、現実には太刀打ちできない。クールに現実を見る、テクニックを学ぶことは必須と言えよう。
 しかしまたそれは、「子どもたちを守る、救う」というホットな思いに支えられてこそ可能であることを感じさせてくれたいい講演だった。

向き合えなくなることを「卒業」と呼ぶ

2007年01月10日 | 読書
 重松清著の『卒業』(新潮文庫)は4編が収録されている作品集だ。
 いずれも読みきりの形であるが、作者自身が書いているように「淡いつながり」もあるように感じる。
 「卒業」をテーマにした作品集で、重松清とくれば設定は当然学校となるのだろうが、実際に学校や教室の場面が多いわけではない。
 しかし、そのどれもが現在の教育の問題点を鋭くえぐる、独特の重松ワールドが展開されている。

 今回、心に残ったのは「あおげば尊し」という作品である。
 主人公である小学校教師の父親は、退職した高校教師。それも「厳しくて冷たい教師」「たとえ話をするなら、学園青春ドラマの嫌われ者役の教師」だった。
 「秩序と厳しさを教え」「未完成な子どもを少しでもおとなに近づける」ことを生涯の使命とした。世間からの評価はうけるが、その一方で生徒には嫌われ、教え子の結婚式にも招かれず、訪問を受けたこともなく、年賀状さえ誰からもこない教師だった。
 その父親が末期がんで余命いくばくもない状況が話の始まりで、主人公の受け持つ一人の「問題児童」もかかわりあうという展開になる。
 父親のような教師にはなるまい、と歩んできた主人公の心が、厳しく自らの「生」を見つめる最期の日々を通して、自責で揺れながら変化していく過程が描かれていく。

 「いいか、光一。教師は目先のことを考える仕事じゃないんだからな。それが他の仕事とのいちばん大きな違いだ。」

 父親が、主人公である息子にかつて語った言葉の真実を、死期が迫まっても頑なまでに表そうとする姿は痛ましくもあり、神々しくもある。
 最期に至って、主人公は父親の教え子の一人となり、周りに止められながら、もう一人の教え子となる自分の受け持ちの子と一緒に、その時に臨む。
 教師としての父親の誠を、はっきりと受けとめて周囲の反対を振り払う。

 「教え残したことがあるんだ。いまじゃないと教えられないことだったんだ。」

 小学生の子と手を握り「言葉のない授業」を続ける場面は淡々と描かれるが、それだけに「生の尊厳」といった言葉で括るより、心に迫ってくる。
 もう開ける力がなくなっても、目を背けずに向き合え…

 葬送の曲に、父親が好きだった「あおげば尊し」がかかる結末。
 主人公が予想しなかった不揃いの合唱が少しずつ広がったとき、私は、映像化するなら青空のシーンしかない、そんな届き方をしてほしいと願った。

「本当の関係」を姿でとらえているか

2007年01月08日 | 雑記帳
 結構多くの学校が「かかわり」や「伝え合い」などという言葉を研究主題の文言に入れているような気がする。自分が勤務していたところもそうだったし、周囲をみてもそういう傾向がある。最近は「人間関係力」というテーマなども目にした。

 子どもたちいや大人も含めて社会全般の現状が、そうした関係の希薄さを感じているからこその設定だと思う。
 しかし、私たちは「姿」として、本当のかかわりとか関係とかをどうとらえているのだろうか。

 言語におけるコミュニケーションと限定した場合であっても、それが端的にいってどういう姿を目指しているのか、明確にしていないような気がする。

 一つのいい言葉を見つけた。
 数年前に読んだ『見城徹 編集者 魂の戦士』(KTC中央出版)に、こんな一節がある。
 本の題名から想像しにくいが、実はこれはNHKの「課外授業」の記録である。
 
 見城氏は6年生の子どもたちにこう語りかけている。

サッカーボールを蹴ったり、教室でふざけあっていたり、たまには喧嘩したり、ワーワーやつていたりという、それが関係じゃない。それが本当の友だちじゃないんだよな。言いにくいことでもきちんと言って、そこから何かが始まったときに、それが本当の関係になる。

 「編集」をあつかった授業を数時間実施し、その中で子どもたちはいろいろな意見を言い合い、作品を完成させていった。その過程を集約しながらのまとめの話だつた。

 人にものを言うってことは、覚悟がいる。でもそれが通じたときは、今までとは違うもっと深い関係になっている。

 いずれにしても、そこで問われるのは本気さであり、子どもたちがその気になる場面をいくつ作り出していくか、それが決定的だろう。
 多様な子どもたちの性格や能力を見据えることは大切だが、配慮という名で本気さが薄まるようでは、真の姿は遠のいていくのではないか。