すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

いつかのために声を響かせる

2007年05月15日 | 教育ノート
 音読や暗唱を重視する活動の意味づけは、いろいろな場で行う必要がある。
 そして取り立てて行うことに関しては、その有効性を強く信じるという点が大切ではないか。だからそのために繰り返しいろいろな機会を通じて、話し、書くということに努めている。

 
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 今年度本校では「声を届け、受けとめることのできる子どもを育てる」ことを大きな柱としました。そのために授業の研究はもちろん、朝の活動を充実させたり、集会などを継続的に行ったりしています。
 また子供たちには本校独自の必修「音読・暗唱詩文」をカードにして配布を始めました。内容はよく読まれている詩などですが、その他に著名な文章、それも古文・漢文と言われるものも今後取り上げていく計画になっています。
              
 以前からの日本語ブームの影響もあるでしょうが、ブームが去った今も「音読・暗唱」などへの注目は学校教育の場で高いままです。これは言語感覚と一緒に情感・情緒を育てるというねらいはもちろん、脳科学の面からも非常に効果のある活動とされているからです。単なる懐古趣味の広がりでないことは確かです。
 2月に京都のある小学校を参観した時に、3年生の子供たちが凄まじい集中力で漢詩を読んでいる姿に圧倒されたことがあります。リズムにのりながら声を出すことで、言葉の力だけでなく学ぶ姿勢や意欲まで鍛えられている印象を持ちました。本校の子供たちにも身につけさせたいと思いました。
             
 昔覚えた何かのフレーズがつい口に出ることがあります。幼い頃には意味がわからなくても、今になってストンと胸に落ちる文章があります。
 子供たちの何十年後かのそのような姿を予想してみた時も、そこに浮かぶ言葉は今風の気の利いたものよりも、やはり古典と言われるような歴史を経てきた言葉、文章がふさわしい気がします。普遍性を持っているから、と言えるのではないでしょうか。
 また、この校舎の中で大きな声を響かせる活動は、心を開かせることにも通じているはずです。他教科の内容もそうですが、ふと頭に浮かんだ時、口をついて出た時に、覚えた頃の教室風景や先生の顔が思い浮かぶようであったら、それはとても幸せな瞬間と言えるでしょう。
 例えば「論語」の一節などはそんな場面にぴったり合う気がしませんか。
 学びて時に之を習ふ  亦説ばしからずや
 (学而時習之 不亦説乎)
 朋有り遠方より来たる 亦楽しからずや
 (有朋自遠方来 不亦楽乎)
(4/15)
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ウェブ人間としての覚悟

2007年05月14日 | 読書
 この新書で二人が語っていることに対して、自分が抱いた感情は発見であり、納得であるが、同時に時代のうねりに対する不安も大きくなったような気がする。
 ついていけるか、ついていくことに意味があるのか、他にどんな生き方があるのか、様々な思いがわき上がってくるのを感じた。

 『ウェブ人間論』(梅田望夫・平野啓一郎 新潮新書)の前書きに、平野のこんな文章がある。

 日本におけるインターネット元年は、1995年と言われている。たった、十年ほど前のことである。しかし、私たちは最早、それ以前の生活を実感として想像し難くなっている。

 たしかに、たしかにと思った。インターネットが生活を変えるという言葉は盛んに言われていたが、様々な便利さを感じてきてはいたのだが、そして同時に問題点を感じ考えてきたつもりではあるが、「実感」としての変化はやはりここ十年に思いを馳せてみれば、重くのしかかってくる。
 以前の生活を想像しにくいほどの変化の中で生きているのだという、「覚悟」が必要なことを思い知らされる。

 教育を巡る問題にとっても重要な認識が示される。平野はこういう表現をした。

 これからはみんな、「生まれた時に放り込まれたコミュニティ」で交わされる言葉や価値観と同時に、ネットの世界のあらゆる場所の人々と交流する言葉や価値観に影響されながら、成長してゆくことになる。

 二人が最終章で「人間の魅力」について語り合うことと重なり合っていると言ってもよい。
 梅田の言葉である。

 人間の魅力を構成要素に分割して考えるなんておかしな話だけど、ネットで増幅できる要素と、ネットで増幅できない要素を、分けて考えることが大事だと思うんです。

 知識や情報をどう受けとめ、どう取り込んでいくか。
 その時に、自らの身体性をどうとらえて、生かそうとするのか。
 かなり注意深く自分の仕事や暮らしを見つめていく必要を感じるし、そうしないと、あっという間に飲み込まれる危険な時代の変わり目である。

 梅田は、「その魅力の総体が、幸せに暮らしていける条件になっていく」と規定している。しっかりとした位置づけを個の中に作り出している人の言葉だ。
 ネットの中に自分を作り出すことの是非はともかく、少なくともネットの中に自分を見失わないような努力が、今一番求められるのではないか。

声を届ける、受けとめる訓練を

2007年05月13日 | 雑記帳
 金曜日の校内研修会では、地元にいる元アナウンサーを招いた実技研修会を行った。本年度「声を届ける 受けとめる」を研究主題に盛り込んだので、その一つとして設けたものだ。
 6年生への特別授業後、職員対象に質疑応答や実技をしたのだが、その内容の一つにこんなものがあった。
 
 4,5人を後ろ向きに立たせ、少し離れたところからある1人を想定して呼びかけてみる。その声がねらった人に届くか。

 そういえば、もう三十年以上も前の学生の頃に、そうした授業があったことを思い出した。
 たぶんN先生の担当であり、竹内敏晴氏や野口三千三氏の主張と大きく関わっていたはずである。劣等生であった自分は少し距離をおいてみていたが、その意外性のある手法だけは妙に記憶にある。

 さて今回の実技指導であるが、実際にやってみて声をかけられた相手がはっきりとわかるのは至難のことである。講師も「別にあてることができなくてもいいですよ」という。
 では、結局何のためにこのワークを行うのか、これは結構興味深いことである。
 
 「声を届ける」ために大きな力を持つのが「視線」であることには間違いない。講師も初めにアイコンタクトを取り上げた。
 では視覚的に受けとめることのできない、後ろ向きの状態の人に声を届けるためには、どんな力が必要なのか…
 つまりは、その点に意識的になるということが一つあろう。
 発音であり、発声である。
 現に職員で試したときも、後ろ向きで聞いていると見事に差が際立つ例もあった。声が近くまで届くか、途中で落ちてしまうか、意外なほどはっきりわかった。
 
 複数の相手を後ろ向きにし、その中の一人を対象に声をかけるという行為には、身体の向きや姿勢よりも「意識」の問題が大きいことは確かだろう。
 ただ心で念じるばかりで何か届くような錯覚を持ってはならない。声の凝縮度というか密度というかそうしたことを高める訓練が必要なのではないか。
 結局それは、発音・発声の問題に結びつくし、そして身体の使い方に及んでくる。抽象的な言い回しであるが、声に「心をのせる」訓練ともいえよう。
 
 また受けとめる側の意識についても考えさせられた。
 背後からの呼びかけを感じとれるかどうかも意識的なことであり、その耳や身体も鍛えられるのではないか、ということである。鍛えられるべきということである。

 こういう場がいかに少なかったかを改めて思い知らされた。

設計図を書き直す前に

2007年05月12日 | 読書
 『欲張りすぎるニッポンの教育』(講談社新書)は、先日取り上げた箇所だけではなく、読みどころいや考えどころ満載の本である。

 苅谷剛彦氏とジャーナリスト増田ユリヤ氏との対談を中心に構成されているが、総合や英語に始まってフィンランドの教育との比較などが、平易な表現で語られている。今まで数冊読んだ苅谷氏の本と比べても断然わかりやすいような気がした。
 そして文章を理解できた分だけ、自分がしてきたことや考えてきたことと照らし合わせることができたと思う。
 考え込んでしまったのは、大きく次の二つのことである。

 一つは、いわゆる「選択」ということ。
 ここ十年近く、その言葉は学校の教育活動にとって一つの大きなキーワードであったはずだ。
 教科においても、特別活動においても、その言葉を念頭においた実践が取り入られてきた。
 そうした方向に全面的に与したわけではないが、私もある面で支持してきた。
 しかし、どこかで何かひっかかっていたことも事実である。
 そしてこの本を読み、そのひっかかりはこれだなと思ったのが次の苅谷氏の文章だった。

 世の中全体でプログラム化が進んで、あたかも自分で選んだかのようにして育ってしまった子は、ちょっとでも依存できる対象が欠けたときには、不安でしようがなくなる。一見正解を教え込まれていないはずの子どもたちのほうが依存性が出てきてしまうとしたら皮肉な結果です。

 教育活動における「選択」が現実における力になり得るのか、重い問題である。


 もう一つは「問題解決における学校の役割」である。
 この場合の「問題」とは問題行動であり、非行であり、犯罪につながるものも含めてとらえている。
 苅谷氏の次の認識には、なるほどと思った。
 
 すごく極端な話をすると、もし十五歳で義務教育が終わって、四割ぐらいの子どもが社会に出ていれば、十五歳から二十歳までの青少年問題の多くは教育問題じゃなくなるんです。(中略)つまり、僕らは日本の教育が悪い悪いというけれど、その分、社会の問題を少なくしている可能性がある。

 上のような共通認識は、多くの人に理解され、受け入れられるのだろうか。
 もしそうなった場合、私たち教員の職業意識はどのように変化していくのか。そしてそれは案外面白い変革を生むきっかけになるかもしれないなあ、などとぼんやり考えている。

 ともあれ、この本で苅谷氏が一番言いたいことは次の点であろうし、そのアナウンスはぜひとも必要だと強く思う。

 教育のリフォームやリニューアルを大仰に語る前に、日本の教育の現状と、その可能性や限界を冷静に見つめ直すこと。設計図を書き直す前に、もう一度、リフォームの必要性や方向性について考え直すこと。そして、どうしてもリフォーム好きになってしまいそうな自分たちの体質を自覚し、とらえ直すこと。そういう落ち着きを取り戻すことが、今、強く求められている。


美しさを支え、形作る毎日

2007年05月10日 | 教育ノート
 桜の季節が終わった。
 去年は、廃校跡と絡めたことを別ブログに書いたのだが、今年は少し余裕がなかった。
 それにしても、満開と運動会の日がぴたりと重なったことが何より嬉しい。
 自分の家のことを思い出してもそうだが、将来その日の風景を思い出したときに、桜は大きな背景の一つとなってくれる。
 そして、そうしたハレの日を支える平凡な毎日があったことにも、思いを馳せられる。


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 「桜」のもとの字はご承知のように「櫻」です。「木」と「嬰」(エイ・オウ)をあわせた字で「嬰」は女子が首に巻く貝の首飾りを表しているとのことです。
 そこから「とりまくこと」の意味になり、「桜」は「花が木全体をとりまいて咲く木のこと」という意味を持ちます。

 運動会の日は、見事に咲きそろった桜がきれいでした。参加された方々からも「運動会とこんなにぴったりと合ったのは珍しい」という声も聞かれたほどです。 
 ところで満開の木をよく見ると、やはりその美しさを支えるのは、幹や枝振りの微妙な曲線であることに気づかされます。
 数日だけ咲き誇る花と対照的に、幹や枝は毎日熱や風や雨にさらされて形作られていくのですね。
(5/9)
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マクドナルドの店員たちの今

2007年05月09日 | 読書
 苅谷剛彦氏が『欲ばり過ぎる日本の教育』(講談社現代新書)で、ちょっとおもしろい喩えを使っている。

 マクドナルドのシェフの悲鳴

 これだけ読むと、なんのこっちゃと思うことだろう。そもそもマクドナルドにシェフなんているのかい、などとも考えるかもしれない。
 意味は、この文章を読むとわかるだろう。

日本の学校も、ある意味そうやって(注:マクドナルドのようにということです)マニュアル化されている。ところがあるときからその人たちに一斉に、フレンチレストランのシェフになれと言い出した。子どもの注文に合わせた料理をつくってくださいと、言い出したんですよ。総合学習がまさにそれです。


 この喩えにそって考えてみると、こんなふり返り?もできるのではないか。

 総合学習について国が言い出し、進めたとき全国各地のマクドナルド店員たちの動きは次のような姿となった。
 その通りオーダーメニューを目指した者
 そんなことは無理だから、メニューを増やしましょうという者(だから、上で何料理か決めてください、という声も多かった)
 その地域にある素材を生かしたメニューがいいはずという者
 中身はハンバーガーでも包み紙を変えたり、おまけを付けようとした者
 …

 そして、総合が登場して10年を間近にした今。それらの「店」はどうなっているのか。
 形容できるほどに把握できていないが、たった一ついえるのはこういうことか。
 
 「しっかりしたハンバーガーを作ってください」という声が高くなってきた。
 そのためのコンテストもあるという。最近は欧米風の味付けが審査員のお好みらしい…

 と、ここまで書くと益々滑りそうなのでストップ。

 個人的にマクドナルドは好きではないし、苅谷氏の喩えにも違和感があるのだが、想像を広げられたので勝手に書いてみました。
 自分の仕事を見回しながらイメージしたら、「田舎の食堂」なのかな(味はしっかりしてます、と言いたい)

物足りなさを、引き寄せてみる

2007年05月08日 | 雑記帳
 連休中のある日、昼下がりに小さな学校についてのTV番組が放映された。
 「○○小学校物語」と称されたその番組を、少し期待をして見たのだが、正直少し物足りなさが残った。
 同じ県内にある、全校児童7人という極小規模の学校を取り上げて、その一年を追うものであったが、「密着450日」というナレーターの声は明らかに誇大であることがわかる内容だった。
 もし言葉通りの密着であるならば、もう少しいい画面がとれたのではないかと感じた。それ以上に、主題への接近や構成の緩さが目立ったような気がする。主たるスポンサーのようであったAV関連のM社の、コマーシャル製作のおまけなのか、と思わず毒づきたいほどだった。

 それはそれとして、取材対象になった「学校」に関わる者として、この番組制作の困難さを別の視点から考えてもみた。
 つまり、製作する側にとっての隘路はこんなところにもあったのではないか、ということである。
 もちろん、きわめて個人的な予想である。

 ①小規模校の子供は、表現力が乏しい
 ②山間へき地の「絵」になりにくい実態がある
 ③放送では取り上げにくい「事件」がある

 ①に関して、言語に限らず表情や動きも含めて、これだ!というシーンが乏しかった。(だからこそ、カメラが回っている大量の時間が必要だったし、取材スタッフと子どもたちの精神的な交流が図られるほどの時間があったか、という中核的な問題があるが)スタッフは、もう少し喋ってくれればとか、面白い言葉はないかとか思ったことだろう。

 ②については、例えば通学のシーンがなかったのはどういうわけか。おそらく多くの子が自家用車による送迎か?東北の寒冷地に住む子どもの四季を撮るときに、吹雪の登校は絵になる絶好のものだろうが、それがないのは暖冬のせいだけではなかっただろう。家庭環境もしかりではないか、へき地性を感じさせるものは乏しいかもしれない(いや、実はそれを発見するのが取材者の目だと思うが)

 大きな「事件」として、一人の子の突然の転校があった(七分の一の転校なのである)。これはもちろん個人的なことであろうし、その理由は一言も語られなかった。こうした地域であれば様々な予想が浮かぶが、それ以上のものにはならない。
 年度末の、一人の担任の転勤があった。講師という身分の方であったろう。「転任先」(こういう表現であった)は、横浜市だという。この県に住む教師であるならば、これはどういうことであるかおそらく同じ予想をするだろう。教諭採用が窮めて少ない本県ではなく、他県を選ばざるを得なかったということではないのか。もちろんこれもテレビでは語らずじまいだった。

 物足りなさの原因を突き詰めて、自分の仕事に引き寄せてみるといろいろな考えが浮かぶものだなと、なんとなく感心してしまった。
 また、番組の中で惹きつけられたいくつかの場面もあったことも付記しておきたい。一番おっと思ったのは、一、二年教室の正面に飾られた額入りの一つの言葉(校訓だと思う)であった。その地域の建学の精神が凝縮されていた。

 かいたくせいしん

自己評価を揺るがざる客観にする大鏡

2007年05月03日 | 読書
 浅田次郎氏がエッセイ集『人は情熱がなければ生きていけない』(講談社文庫)で、ちょっとおもしろいことを書いている。

 ふと思うのだが、近頃自己評価の甘い人間が多いのは、われわれの生活からこの大鏡がなくなったせいではあるまいか

 ここで言う「大鏡」とは「大きな鏡」のことで、昔の銭湯にあったようなものを指している。
 浅田氏は、男も女も紛れなくその鏡の前に立ち、自分の身体を晒すことで、そこに集った人々の違いを知り、自身の成長や変化を判断していったという。
 そこで見た己の姿を確かめながら、人は暮らしてきたという。

 ところが自宅の風呂が普及し、銭湯は少なくなり(健康ランドはあるけれど明らかに違う)、誰しもがその前にたつ大鏡の存在は消えていった。
 氏は、家庭にある半身を映す鏡などはあくまでも「個人的フレーム」であると言い切る。

 湯屋に行かなくなったわれわれは、本来社会的視野で判定すべき自己評価を、マイフレームの絶対的視野でのみ判断するほかはなくなった

 ここで語られていることは「肉体」のことであるが、それは「それを器とする精神にも採用される」という一言は、ずしりと重い。

 大鏡に象徴されるようなもの、場を、私たちはいくつ失くしてきただろう。
 そこで培われてきたものは、生きていくうえで必要な評価能力であった気がするし、それは強さと呼んでいいものだった。

  自己判断は明確な相対的結果であり、揺るがざる客観であった

甲をつけて、甲を目指せ

2007年05月02日 | 教育ノート
 月初めの集会で「こいのぼり」について話をしてから、おり紙の「かぶと」を見せ、新聞紙で作ったものを一人の子の頭にかぶせた。
 こいのぼりの泳ぐ姿がめったに見られなくなったのは、少子化の一つの風景であるし、親の願いが明快でなくなったことの表れとも捉えられるのではないか…。
 この文章の次には、できれば紙のかぶとを作って子どもの頭にかぶせてやってほしい、と付け加えた。


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 この字は「コウ」という音読みが一般的ですが、訓読みでは「よろい」「かぶと」という読み方があります。
 全校集会で五月人形にちなみ「かぶと」のことを話しました。「兜」の字がよく使われますが、「甲」の字もあるんだなあと思い出しました。
 この字は亀の甲羅の形をもとにできたそうです。甲羅のように堅いもので身を守ることから「よろい・かぶと」という意味になりました。また「甲」は「十干」という暦年や暦日を数える中国の方法に出てきます。有名なのが「甲・乙・丙…」という言い方ですね。
 「甲」はものの順序の「第一」つまり「首位」を表してもいます。
 春の大運動会…かぶとはつけませんが、みんな首位を目指して頑張れ!
(5/1)
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キャッチボールと洗濯と

2007年05月01日 | 読書
 伊集院静氏の著した『MODESTY』(ランダムハウス講談社)を読んだ。

 サブタイトルが「松井秀喜 つつしみ深い生き方」である。アメリカで『HIDEKI MATSUI』として発刊されたものの日本版ということらしい。

 氏と松井選手との交流は有名なことであり、エッセイ等で書かれてあるのを何度も目にしている。
 出会いから、メジャー行きの決断、渡米そしてデビュー、怪我からの復帰までが氏の目を通して描かれている。
 
 この本は別の言い方をすると、一種のファンレターでもある。小説のなかで芯のある人物を描くことに抜群の才能を見せる作家が、ファンレターを書くとこういう感じになるのだろうな、と感心させられた。
 
 またこの本には、野球をどこまでも愛する氏の独白がちりばめられていて、その面でもおもしろい。
 例えば、氏のもとに「子育て」に関して相談しにくる若い父親、母親に対してこう返答するという。

 (父親に対して)
 「野球をさせなさい」
 「キャッチボールは会話なんです」


 (母親に対して)
 「泥だらけのユニホームを毎日、洗っておあげなさい」

 最近、「キャッチボール」をモチーフとして文庫を2冊刊行した伊集院氏であるが、その中にもキャッチボールの持つ精神性が強く表れていたように思う。
 
 子育てに、言葉は欠かせないことである。
 この本にある松井選手の「悪口を言わない」というエピソードの中でも、その思い出の中での父親の一言は心を打つ。
 しかし同時に、言葉以上に伝わることも世の中にはあるのだ、ということをある章のタイトルは教えてくれている。

 父と息子のキャッチボール
 母の洗ったユニホーム