すぷりんぐぶろぐ

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2008年12月09日 | 雑記帳
 マーシャル・ゴールドスミスという人は、コーチングの第一人者らしい。
 インタビュー記事を読んで、一つの言葉が目についた。

 フィードフォワード

 フィードバックという言葉は、私たちも時につかったりするが、その対義語のようだ。
 つまりフィードバックは「過去の行動への意見」であり、フィードフォワードは「未来に向けてのアイデア」というとらえである。こうした大まかな区分けで、なんとなくいい言葉だなと単純に思ってしまう。

 ところが「フィードフォワード」という言葉をちょっと調べてみると、いろいろ面白い文章に出合う。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A3%A1%BC%A5%C9%A5%D5%A5%A9%A5%EF%A1%BC%A5%C9
http://zatsugaku.com/archives/2004/11/post_479.html
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/subject/sub25.htm
http://www17.ocn.ne.jp/~katyam/page011.html

 いろいろな場面の理論に使われている言葉なんですねえ。
 特になるほどと思ったのが、自動車関連のページだった。
http://homepage3.nifty.com/KMG/dic/fiidofowaado.html

 予測制御 

 この考え方は、授業研究に十分活用できるのではないか。
 もちろんそこにあるフィードバックの考え方も含めて、今まで行ってきたことを区分できる有効な視点かなと思った。
 もう行われているような気もするし、ちょっと調べてみたい。
 考え方としては、これはフィードバック?それともフィードフォワード?

子どもの目で語る過程

2008年12月08日 | 読書
 出版社のPR誌で読んだ小文が面白かったので(ジャパネットについて書いたものだった)、長嶋有という作家の文庫本を一つ読んでみた。

 『猛スピードで母は』(文春文庫)
 小説読みではないので知らなかったが、芥川賞作家であるようだ。

 短編が2つの薄い文庫本は、休日の風呂に持ち込むのには非常に良かった。
二編の共通点は、いずれも「子どもの目」を通して書かれている部分が圧倒的に多いことだ。
 そして自分が、子どもを主人公や話者として設定する作品を結構読んでいることに今さらながら気づく。
 といっても重松清など一部の作家に限られているなあ。

 「子どもの目」で語ることの意味はどういうことだろうか、とふと考えた。
小説好きであれば、そんなことはとうに思いを巡らしたのだろうが、自分にはなかった。

 子どもの目を通して描かれる中心は、紛れもなく大人の姿である。
 大人の何気ない言葉や仕草が大きな意味を持って圧し掛かってくるような表現が結構多い。
 それは結局、作者がそうした言葉や仕草の意味を創造できたことになるわけだが、それは子どもの感性と照らし合わせる過程を潜り抜けたということか。
 小説の中で語る子どもの多くは、成熟しているし、饒舌である(自分の中でということ)。
 実際にそんな子がたくさん存在するとは思えないが、作家たちは子ども時代にその目(これは芽といった方がいいか)を身につけてきていて、それを少し難しい言葉で表現しているということなのだろうな。

 観察される大人として女性が多いと思うのは、思い込みだろうか。
 このあたりは、もう少し読み込まないとわからない。

姿かたちの良さが物語る

2008年12月07日 | 雑記帳
 立川談春の落語を初めて聴いた。

 その名を知ったのは数年前。直接はもちろんのことテレビやCDでも聴いたことはなかったのだが、その「名声」は書籍などを通じて知っていた。
 「天才」と呼ぶ人がいて、また「今、最もチケットが入りにくい落語家」とも称されていた。

 夏に話題のエッセイ『赤めだか』を読み、ぜひ機会があればと思っていたが、早々にそのチャンスがやってきたことは幸運だった。

 落語をきちんと?見聞きするようになってまだ数年であり、直接聞いた落語家はまだそんなに多くない。ただこの頃はDVDやCDなどでも結構聴いているので、少し幅が出てきたかなと思っている。
 その中で、腹を抱えるほど笑わせてくれた喬太郎など数人がいるし、ああ上手いなあと思わされた噺家も結構いる。正月に見た志の輔もさすがではあった。

 が、いやあ談春は凄かった。

 細かい技術を語ることは到底できないが、ただ圧倒された感がある。
 喋り、間、表情、仕草、それらが総合されて、一つの世界を創りあげているとでもいえばいいだろうか。情景を説明する語り口などもなんとも言えず上手だと思った。
 あれが芸なのだろう。

 それだけだったろうかと少し心が落ち着かなかったので、『高座の七人』という噺家写真集(といっても文庫本だが)それを見直してみた。

 そうだ、写真を見ながら改めて気づく。
 立ち姿、礼、動き…それらがしゃんとしていた。美しかった。
 吉川潮は次のように書いている。

 高座姿の美しさ、様子のよさは、いくら努力しても身につかない天性のものだ。それを持ち合わせている談春

 落語に対する姿勢がどうのこうのとまでは言えないが、姿かたちの良さが物語るものはいつも大きい。

ソコツキとキヅキ

2008年12月06日 | 雑記帳
 NHKの深夜の番組「トップランナー」で、西原理恵子がゲストとして登場していた。
 数日後の朝、ラジオの情報番組からも西原の声が聞こえてきた。

 好んで読んでいる漫画家とはいえないが、またけして友達になりたいタイプではないが、実に面白い発想をする人だと思う。凡人が持つ人目にとらわれた常識とはかけ離れた人生観を持っているのだろう。
 その西原が、両方の番組で同じことを言った。

 亡くなった夫、鴨志田カメラマンのことを語ったときだ。

 ソコツキとキヅキ

 つまり「底つき」と「気づき」だと思う。底は「付く」か「着く」かはたまた「就く」か少し迷うがニュアンスは伝わる。

 底までいくことによって気づきがある…私たちは、問題が生じたときにどうしても早めに手を打ち、それに対応しようとする。事態が悪化しない前に策を考え、うまく取り繕おうとする。それを駄目なことと斬り捨てる勇気はないが、いつもそれを繰りかえすことによって、対象者が問題を本当に気づかずにいってしまう場合もあるのではないか。

 底まで落ちろ、そして初めて気づきがあり、それから這い上がってこそ真の問題解決というべきではないか。強い主張である。
 西原の場合、そうして気づいた鴨志田が実は病に冒されていてなんとも言われない結末を迎えるのだが…。

 西原の言葉を聞いて、ふと思い出したのが昨年読んだ『日本人よ!』のオシムの文章だった。
 個人的な経験から導き出したのだろうが、見事に国民性へ向けられた言葉だった。

 日本では既に全てが解決されている、だから、人々は全てが解決されることに慣れてしまった

見世物垂れ流し

2008年12月04日 | 雑記帳
 昨夜テレビのトーク番組を見ていて、ある女性タレント?が喋る姿がとんでもないほど伝わってこないので少し驚いた。
 もっとも、番組中にその発言が他の出演者にネタにされるほど酷かったわけで、それも「見世物」の一つには違いないのだろうけど。

 伝わらない理由を挙げていくと

 早口である
 丁寧語を使わない
 世間の現実とかけ離れている
 他人の質問などに不快な表情を見せる

ということになるだろう。
 ということは、この逆が伝わる条件となるだろう。

 ゆっくりと
 場と相手に応じた言葉遣いで
 現実場面と重ね合わせられる話題を
 他者の反応を受け入れながら

 ごもっとも。なるほど。
 それにしても、基本が全部駄目だとあれほどまでに視聴者(私が代表でもないが)に不快感を与えるといういい見本になった。
 だって、番組司会者つまり主人公であるあの明石家さんまでさえ苛立っていることがわかったもの。

 かつてラジオ番組収録の話を知人から聞いたことがある。何気ない笑い声さえ「不快感があるからNG」とされたという。
 そんな放送業界が、今では果てしなく泥沼化、なんでもありの垂れ流し状態ということか。

それそれ、やれやれ

2008年12月02日 | 教育ノート
 教材文に「きらきら」という言葉があったので、
「『きらきら』のように『○△○△』という言葉を集めます。使っている国語辞典に載っていたら、黒板に出てきて書いてごらん」
 そんな活動をしてみた。

 結構たくさんあるはずだが、と思うが2年生だと頭の中でそんなにすらすらとは思い浮かばないようだ。思いついたことばを辞典で調べていく子だけではなくて、ぺらぺらとめくってみて偶然に見つける子もいて、なかなかユニークなことばもでてきた。

 「ようよう」という言葉が出てきて、あれっと思ったら、全校で音読している「枕草子」の読み方に「ようよう」がありそれを思い出したらしかった。書き方は「やうやう」なのにどうして辞典にはないのかな、などと口にしている。小学生用の国語辞典にある「ようよう(洋々)」とはちょっと違うんだが…まあ、そのままにしておくか。

 一つ辞典で見つけると、すぐ近くで見つかることに気づいた子もいた。

「きらきら」→「ぎらぎら」などはたくさんあるし、三連発も結構ある。
「はらはら」「ばらばら」「ぱらぱら」
「ひりひり」「びりびり」「ぴりぴり」

 これは語感の違いで授業ができそう、そんな気がする。

 畳語

 不勉強で去年野口先生に教わるまで使ったことのない言葉だったが、ネットでいろいろと検索したらこんなサイトもあり、勉強になった。

 また意識しなくてもこんなに自分が使っていること(この文章にもかなりある)に少し驚いた。

 ほどほどがいいんだろうか。
 またまた。

定番探しは自分探し

2008年12月01日 | 読書
 『遊ぶ奴ほどよくデキる!』(大前研一著 小学館文庫)
「デキる」を仕事と解釈すれば、この題名はあんまりふさわしくない。
 意図はわかるが、本当のところは「デキる奴ほど、よく遊ぶ」という表現が正確ではないか。
 つまりは、心の余裕をどう見つけるか、が一番である。
 そこに、時間とお金の余裕が加わるわけだが…。

 大前氏のような環境に誰しもあるわけでなく、そのまま真似しようと思う人などは多くないだろう。それにしても、そのエッセンスになるほどと思うこともある。
こんな小見出しがある

 自分の「定番」を持てば、人生は何倍も豊かになる

 食べ物や持ち物、もちろん趣味や通う店まで、適切で自分の好みに合うものに絞り込んでいくという意味らしい。もちろん、それに到る過程の「豊かさ」もさすがであり、凡人が実行するにはかなりの意識変革も必要になってくるだろうが。

 考えてみると、自分の定番と言えるものがいくつあるだろうか。
 ほんとに数えるぐらいしかないということは、とことん突き詰めていないからだなあ、とこの齢になって少し寂しい気もする。
 定番探しはいうなれば、一つの自分探しなんだろうと思う。