すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「コピー」を作る導入

2010年07月14日 | 教育ノート
 ある団体から標語への応募依頼があり、ちょうど担任が出張時に取り組むことになった。簡単に説明、指示を出して書かせるよりは、と思って、少し授業らしくやってみようかと計画を立ててみた。

 今となっては懐かしい?コピー作文の応用である。
 結果として、詰め込み過ぎの時間不足で尻切れトンボになったが、導入はなかなか面白かった。
 
 「コピーとは何か」ということを簡単に話してから、そのコピーの実物を見せたのだが、今回は標語にもっていくということで、紙資料のみ使うことにした。

 手元にある二、三日分の新聞、広告から三つ探した。
 いわゆるキャッチコピーを見せ、何の広告か予想させてみる。

 至福のひとときを!
 
 いくつか予想の声が聞こえた中に、正解がするっと出た。
 「パチンコ!」
 月曜お馴染みのパチンコ店のチラシである。儲かっているにちがいないチェーン店Dである。
 二つ目は

 心に決めた! 

 「心」に「ハート」とルビが振ってある。これはなかなか難しいが、下に小さく書かれている部分に目をつけると、簡単に分かる。

 ~平和を、仕事にする~
 
 「自衛隊!」
 正確には防衛省の陸海空自衛官募集ということである。
 三つ目は難しい。
 あの元サッカー日本代表監督イビチャ・オシム氏の写真が載っていて、こんな言葉が

 スピードが命なんだよ。
 
 「サッカー」「ああ、サッカー」…とそれぐらいしか思いつかないのが子どものようだ。
 「なんで岡田監督に替わったか、知ってる?」と問いかけてみると
 「病気?」というつぶやきも。

 そこで隠していた部分を見せる。

 それは脳卒中でも同じだ。
 
 ACジャパン(公共広告機構の新しい名前)がバックアップする日本脳卒中協会の広告である。

 印象づけるフレーズでクイズ的に扱ってみる面白さを感じた。

 巷にあふれているこうした言葉に関心をもつきっかけになれば、目標とした標語の出来は今一つだったが、まあ学習にはなったかなと自己満足している。

書のチカラを感じて

2010年07月13日 | 雑記帳
 昨日は地区の書写審査会があった。
 二、三年ぶりに参加して、以前もそうだったがたまたま三年生の担当となった。

 そんなに得手でもない書写であるが、一応指導はしてきたのである程度の見方は知っている。しかしそれはそれとして、多くの出品作を見ていると審査を忘れて、時々見入ってしまう作品に出合うことがある。

 それは、書写を授業として始める三年生であることと無関係ではないだろう。
 つまり、筆を持ってまだ何ヶ月いや何時間もという子もいるだろう、そういう初心者の子どもの堂々とした書きぶりに、おおうっと心動かされるということだ。
 お手本に近い金賞作品ではなく、銅賞いや入選と名のついた選外作品の方が、そうしたものにお目にかかる可能性が高い。

 一言で言えば、エネルギーを感じるとでも表現しようか。
 腕の延長としての毛筆といった面持ちで、その力強さがでてくる。

 もちろん毛筆は太くも細くも強くも弱くも書ける道具であることが特徴であり、私の目は一面的な部分しかとらえていないのだが、三年生という条件の中では、そこが一番発揮しやすいのかもしれない。

 『pen』という月刊誌が「書のチカラ」という特集を組んでいた。それを読んでいると、私がいいなあと感じる訳はきっと身体を使っているからではないかと予想ができる。

 自らの身体性を筆にこめる、そんな大げさではないが、筆の扱いが未熟ならば未熟なほど、手先や指先、腕先にこだわることができず、かえって身体全体とのつながりを生んでいる…というのはこじつけ過ぎだろうか。

出力性の高い書物に出合ったら

2010年07月12日 | 読書
 いやあ、面白い。さすがの内田教授である。

 こんなことを書いている。

 爾来私は書物について「出力性」を基準にその価値を考量することにしている。
 小説だってそうである。
 読んだあとに、「腹が減ってパスタが茹でたくなった」とか「ビールが飲みたくなった」とか「便通がよくなった」とか「長いことあっていない友だちに手紙が書きたくなった」いうのは、出力性の高い書物である。
 
 過日ある宴会で読書の話をした。それも小説のことである。
 同職者の集まる会ではめったに出ない話題であったので、楽しかった。
 私の乏しい読書歴ではたしいた会話は出来ないのだが、好きな作家の名前を出して、ああだこうだと薦めるのも、きっと一つ出力性が高いと言ってもいいのだろう。

 ものすごく単純に言えば「真似したくなる」ということがある。
 登場人物の語りや仕草に惹かれ、ついそんなふうに自分をつくってしまおうと思わせるなら、それはもう最高の書物だ。

 しかし怖いことに、それは社会的に認められないことにも人間として許されない面にも通ずる場合があり、その深みに足をとられたらどうしようなどという想いも浮かんでくる。

 おそらく歴史的にはそういう書物の存在があったから、様々な犯罪、紛争、戦争などが誰かの手によって実現されたものと思う。
 書物は楽しいものだが、実は怖いものでもある。

 凡人は、いくら負の出力性が高い書物に出会っても、そのエネルギーを転化し、他に害が及ばぬように健全な出力を心がけよう、などとささやかに考えている。

 なにしろ知り合いとの会話で、絶対のお薦めは『悪人』(吉田修一著)だと力説していたので。

ネジを緩めて、ネジを巻いて

2010年07月11日 | 雑記帳
 昨日の土曜日は、なんだかぼやあっとして過ごした。
 パンパンに詰まった一週間だったんだなあと夜更けにいろいろと思い出してみる。

 日曜日
 県の少年少女陸上競技大会へ応援にいく。真夏日の中、頑張った子どもたち。入賞者も多く出て、うち1名は優勝し全国大会の切符を手に入れた。

 月曜日
 校内授業研究会。研究協議会でウェビング風にキーワードを提示してみた。個別発言のキーワード化の難しさ、視点とのつながりを即座に判断するのは難しい。

 火曜日
 週1の学校報発行。午後から全校集会。5年部の二人の職員に頼んで寸劇風にお話を進める。「目標に数字を入れよう」ということ。少しでも浸透すればいい。あとはひたすら通信簿の文案直し。指導要領解説を見たりする。

 水曜日
 明日のPTAや評議員会の準備、明後日の校長会の準備に追われるが、午後からアクシデントがあり、ちょっと大変。夕方から保育園、中学校との連絡協議会、12月のプランの概要を話す。

 木曜日
 学期末の全校PTA。挨拶は短く、ということは守れている。その後、評議員会。新規の方も交えていろいろ話す。同じことの繰り返しではいけないし、視点を変えてみる必要を感じる。

 金曜日
 今日の校長会に持ち込む資料を仕上げたり、来週の準備をしたりするなかで、学校へ来訪者あり。子どもの顔を見たいという。事情を聴いて納得。様々な環境がある。午後から校長会。事務局仕事である。予定した団体の方が見えず???。会終了後、全体懇談会という名の宴会。

 と、一旦ネジを緩めた土曜日。
 本日はこれから女子相撲大会応援。
 来週はいよいよ大詰めだが、出前授業や保育園との連携事業など、結構あるなあと、もう一度ネジを巻く日である。

「うりずん」の季節へ

2010年07月07日 | 読書
 上手いもんだなと思う。

 短編よりもさらに短い作品を「掌編」と呼ぶことを、この本で初めて知った。

 『うりずん』(吉田修一・文 佐内正史・写真  光文社文庫)

 写真家の撮った一枚(複数枚もある)に対して、小説家がイメージを膨らませて短い物語を書く。原稿用紙にして5枚ほどの分量である。
 その内容は、特に劇的な場面ではなく、会話であったり独白であったり、ほとんど「汗も涙も出てこない。事件も起きない」ストーリーなのだが…。
 そこが作家の作家たる所以か。
 それぞれの主人公の過去や未来には、汗や涙、笑顔、歯を食いしばる姿…がいっぱいあるだろうなと思わせてくれる。

 それにしても「掌編」という名づけ方も納得。手のひらに収まる程度の作品…だからこそ、それなりの愛着を感じられる。

 そういえば、自分の乏しい実践の中でも「変身作文」系は記憶に残る面白さがあった。
 短詩・短歌・俳句などの読解から表現へと、一連の過程をパターン化できたこともある程度成果として考えている。

 写真から俳句、短歌などを創作するのはかなり一般的になってきているし、そこから掌編へというのも十分につながるだろう。
 ちょっと自分で書くか、それとも子どもたち向けの実践プランを作るか…そんな思いも浮かぶ。

 解説によると、題名「うりずん」は沖縄の言葉で「体を動かしたくて、むずむずする季節」らしい。
 スポーツとは言えないが、そんな感覚が持てたような本だった。

ひと月後の研究会のお知らせ

2010年07月06日 | 雑記帳
 所属している研究会で、毎年行っている「まるごと一日 国語教育研修講座」のお知らせをしたい。ちょうどひと月後である。

 外部から講師を招いての研究会は、もう十数年継続しているが、今回はお二人の講師を招く形とすることができた。

 お一人は隣県岩手の照井孝司先生。野口芳宏先生に倣って私家版の『国語教室』を継続して発行しておられる方である。現役校長でありながら、ばりばりの実践者として言語技術教育学会などで提案授業もなさる。

 もう一人は我が県屈指の実践家、京野真樹先生。テレビや新聞などにも取り上げられることの多く、もはや全国区の一人であることは誰しも認めるだろう。私も個人的に付き合いが深い。

 以下が概要である。

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1 期 日 8月6日(金)

2 場 所 羽後町活性化センター・ホール

3 テーマ 生き生きとした言語活動のある授業

4 日 程
  9:30~ 9:50  受付
  9:50~10:00  開会行事
 10:00~12:00  ミニ講座(会員5名)
 12:00~13:20  昼食・休憩
 13:20~16:25  研修講座「私の考える国語科授業づくり~文学教材~」
  模擬授業1 ~京野真樹先生 35分
  模擬授業2 ~照井孝司先生 35分
  パネルディスカッション   80分
     照井、京野両先生 + 指定討論者(佐藤・大内) + 進行(沼澤)
 16:25~16:30  閉会行事
(18:00より懇親会、於:湯沢市)
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 近隣の方々には学校を通して配布してあるが、もし遠くの方で興味がある方がいらしたら、沼澤まで連絡ください。
h-numazawa★nifty.com(★を@にかえて)
 詳しい要項等を送ります。

 一ヵ月後が楽しみである。

田舎者の絶望を書く意味

2010年07月05日 | 読書
 本谷有希子の『腑抜けども 悲しみの愛を見せろ』(講談社文庫)を読んだ。

 本谷の小説は確か2回目、初めて読んだときも強いインパクトを感じた。

 ちょっと探ってみたら、こんなことを残していた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20081023 

 この話もそういうイメージが全篇にある。
 人間は誰しも狂気をどこかに潜ませて生きているのだが、それをあからさまに表出させているような登場人物たちである。

 解説の高橋源一郎は、それを「絶望」と言い切った。
 そしてこうした感覚を持つ作家は、かつて第二次世界大戦後に焦土と化したときに生まれたとしている。
 この小説で本谷が設定したのは、日本の「田舎」である。
 高橋源一郎が次のように指摘したことは、その「田舎」に住む自分にとっては、ずしりと重い。

 我々の知らないところで、実は、戦争が起こっていたのではないだろうか。それは、前の世界大戦に比すべき大きな戦争だったのではないだろうか。 

 ここで言う戦争は、国家と国家の戦いではない。
 兵器ではなく何か別のものを携えて侵略してきた者を防ぎきれなかった、防ぐ術もなかった、そして防ごうともしなかった田舎の敗北である。

 それを気づいた者は「絶望」するし、またそこから歩みを進める。
 それを気づかない者は、いつまでも「希望」を持ち、果てしなく攻め続けられていく。

「総合」雑感メモ3

2010年07月04日 | 雑記帳
 先日参観した授業は、パソコンの一括操作システムを使いこなして、実物投影機も取り入れながら大型デジタルテレビに提示するなど、私の周辺ではあまり出来ていないことであり、その意味では参加者もずいぶん刺激をうけたと思う。

 しかし気になったこととして挙げたのは、そうしたいわば外的装置の多さ、斬新さが授業のねらいに迫るために有効だったか、という点である。
 提示装置は子どもたちが集中してこそ役立つわけであり、それがあることによって逆に集中が乱れた場面も感じられ、機器使用の難しさを改めて考えさせられてしまった。

 今後おそらく「デジタル教科書」のようなものも含めて、情報化の大きな波がやってくることは推測できる。現に「学校教育の情報化」が急激に進んでいることが実感としてある。
 しかし、現実が追いついていかない。いくら機器が豊富に揃ったとしても、それをチョークと黒板のように気軽に使いこなせる(それは無理というものかもしれないが)感覚は、私たちの多くに養われていない。

 つまり、それら情報機器の「何がいいのか」「どこに使えるのか」という検討が十分にされず、納得もできないままに、圧倒的な技術革新を目にして、単に面白がったり、ポカンと口を開けてしまったり、はては背を向けて独自路線を歩んだり…

 政策によって決定づけられる事項のようにも思うが、少なくとも現場としては敏感にそういう動きを感じとって、身構えておく必要はあるだろう。
 情報教育の優先度を上げながら、個々の教員の感覚を養っておくことが大切だ。

 児童生徒全員に情報端末が配布されるとすれば、それはある意味「黒船」ではないだろうか。

「総合」雑感メモ2

2010年07月02日 | 雑記帳
 総合の研究会があったちょうどその日の朝、職員から冊子を手渡された。
 2月に参加したセミナーのまとめだという。総合初等教育研究所の主催で例年開催されている会である。

 その中で、著名な4名の方によるシンポジウムの記録があった。なかなか興味深いことが書かれてあった。
 安彦忠彦氏(早稲田大教授)の発言が特に納得させられた。

 ある小学校の総合の中間発表会で、地域調査をし絵地図を描いて発表していたのだが、そのどれもに方位や縮尺が書いてなかったことを指摘していた。縮尺は無理にしても地図に方位が抜けていることは問題だということで、「活用型の学習」の重要性を強調した発言である。

 習得型、活用型そして総合の時間の意味づけ、つながりについて教師は考えているのかというえ問いかけのようにも感じた。

 そういう見通しをもってやるのは先生方のほうです。


 参観した研究授業の話題にもどっていくが、協議会が終わってから授業者に二つ三つ私見を述べた。

 子供たちは、あるホームページからコピー&ペーストを繰り返したりしていたが、伝えたいことを強調したいならば、いったん印刷した紙媒介にして書いたり切ったり貼ったり囲んだりというアナログ的なことが必要だったのではないか…むろんPC機能はそうした得意技を持っているのだが、方法を学ぶべき段階の子に同時にそうしたことが可能だろうかと考えた。

 この段階、大きく言えば小学生であれば、PCを使う活動はそれオンリーではなく、紙のものと併行して、交互に作業していくような組み立てを基本にしたらどうだろうか、と思った。
 アナログとデジタルを小刻みに入れ込んでいくことを原則した単元づくり…結構いけると思うのだが。

 何を見通すか。その一つがゴールの姿であることは言うまでもない。そこから必要な要素を逆回転のように導きだしてみれば、指導の流れは見えてくるはずである。

「総合」雑感メモ1

2010年07月01日 | 雑記帳
 久しぶりに「総合的な学習の時間」の授業研究会に参加した。研究授業を観るのも本当に久しぶりのような気がする。
 内容は「プレゼンソフトを使って、リーフレットをつくろう」というもの。地域の特産物をアピールするリーフレットをPCを使って作成しようということだ。

 授業の良し悪しということでなく、いくらか事前学習もしたので雑感メモとして残しておきたい。
 なにしろ「指導要領解説」などをじっくりとめくることなどなかなかしないものだから、ある意味いい機会になった。
 
 いわゆる「総合」は外国語が独立?したことで、なんだか後退しているような印象を持つが、実際のところどうなのだろう。
 華々しく創設された「総合」は、学力向上という大きな波にさらわれてしまったのか、それともどっこい力強くそそり立っているのか、どうにも判断がつかない。

 もちろん「解説」には力強い論理が書かれている。
 今回の改訂のキーワードを二つ挙げるとすれば「探究の過程」「協同的な学び」ということになるのではないだろうか。
 前者はある意味で、「体験活動重視の反省」から生まれたと言ってよい。後者は、今流行りの「他者とのかかわり」や「交流」といった点の重視だと思う。

 どれもよく練られた考え、言葉ではあると思うが、やはり乏しい時間数でどこから手をつけどんなふうに展開していくか考えたとき、絵に描いた餅になる心配、不安がでてくる。

 私自身が総合にいだいてるイメージは、競技スポーツにおける試合ではあるが、それが9回裏まで行われなくても、前後半90分やらなくても、3回程度のミニゲームを何度もやれればいいのではない…つまりミニ単元の連続で、探究の過程を繰り返していくことは出来ないだろうか、などと考えている。

 むろん「価値のある」「発展性のある」課題に取り組めることが理想だろう。
 しかし、総合の導入から十年が過ぎて、各学校における課題設定自体がもうすでに既成化している傾向を感じる。その中で斬新かつ継続できる課題を見つけることの困難さは高まっている。