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田舎者の絶望を書く意味

2010年07月05日 | 読書
 本谷有希子の『腑抜けども 悲しみの愛を見せろ』(講談社文庫)を読んだ。

 本谷の小説は確か2回目、初めて読んだときも強いインパクトを感じた。

 ちょっと探ってみたら、こんなことを残していた。
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/d/20081023 

 この話もそういうイメージが全篇にある。
 人間は誰しも狂気をどこかに潜ませて生きているのだが、それをあからさまに表出させているような登場人物たちである。

 解説の高橋源一郎は、それを「絶望」と言い切った。
 そしてこうした感覚を持つ作家は、かつて第二次世界大戦後に焦土と化したときに生まれたとしている。
 この小説で本谷が設定したのは、日本の「田舎」である。
 高橋源一郎が次のように指摘したことは、その「田舎」に住む自分にとっては、ずしりと重い。

 我々の知らないところで、実は、戦争が起こっていたのではないだろうか。それは、前の世界大戦に比すべき大きな戦争だったのではないだろうか。 

 ここで言う戦争は、国家と国家の戦いではない。
 兵器ではなく何か別のものを携えて侵略してきた者を防ぎきれなかった、防ぐ術もなかった、そして防ごうともしなかった田舎の敗北である。

 それを気づいた者は「絶望」するし、またそこから歩みを進める。
 それを気づかない者は、いつまでも「希望」を持ち、果てしなく攻め続けられていく。