すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

整理を整理する,その1

2013年05月17日 | 読書
 整理ということについては、何度も何度も書いてきた。
 コンプレックスを抱いているかのように繰り返してきた。
 いわゆる整理術の書籍や雑誌なども多く読んできた。
 しかしその成果は、甘く見てもほんの少しだ。
 相変わらず机の上には低い山が散在している。

 居直って最近あまり気にしないようにしてきたが、書棚を見ていてそこだけ妙に明るく目に飛び込んできた文庫本があったので、再読してみることにした。

 『佐藤可士和の超整理術』(日経ビジネス人文庫)

 たしか一昨年に読了してあった。
 デザインに少なからず興味のある自分にとって、とても気になる一人だったので文庫化されてすぐ手にしたと思う。

 この本の要諦は、まえがきに記されている次の点だ。

 ひとつのデザインを生み出すことは、対象をきちんと整理して、本当に大切なもの、すなわち本質を導き出してかたちにすることだ

 この至極単純な文章は、他の様々な仕事にも置き換え可能だなと、さっそく思ってしまう。つまり教育分野にも…。
 そういう見方で、第2章を開くと次の小見出しがあり、ますます確信する。

 複雑すぎる世の中に、危機感を持って挑むべき
 その場しのぎの対処では、問題は解決しない


 日々、そういう現場にいる者にとっては、胸突かれる言葉だし、そのための「整理」ということは説得力がある。
 これは整理のための整理ではなく、思考・実行のための整理なのだ。

 整理術のプロセスは、以下の通りである。

 1.状況把握 2.視点導入 3.課題設定

 特に奇を衒った考え方ではない。
 これを細分化していくことも、ありがちとは言える。

 「状況把握」では、情報(要素という意味)収集→情報視覚化→情報分類のステップ。
 「視点導入」は、優先順位づけ→関係づけにより本質を取り出す。
 そして「課題設定」することで解決に向かうわけだが、この解決のための三つの視点がうーーんなるほどと思った。

 磨いて光らせる

 反転する

 組み合わせる


 これは実に有効な認識だなあ、と教育のことばかり連想させる。

 ということで、肝心の情報(要素)収集の段階で整理ができないので、混乱している自分を再発見した結末となった。


 ここは、著者の言うところのステップ「空間の整理」→「情報の整理」→「思考の整理」にもう一度チャレンジしてみようと、机の上を見回せば、またため息一つ。

「はずれなさ」を求めてしまう言語

2013年05月15日 | 読書
 岩波書店の『図書』5月号の対談が興味深かった。

 作家清水義範と日本語学研究者(らしい)金水敏という方が「日本語はこんなに面白い」と題して話をしている。

 外国人の日本語から始まって、文豪の書き言葉、方言の話題、そしておカマ言葉、おネエ言葉などとキャラクターなどの分析がある。そして「敬語とタメ口」の箇所は、さすが専門家だなと納得できた。


 ファーストフードの店員のマニュアルによる言葉遣いはよく批判を浴びるけれど、清水はこんなふうに語っている。

 マニュアル敬語は形式としてのはずれなさであり、若者のタメの問題は心情としてのはずれなさ。これは日本語の二大面白さだなと思います。

 上から教えられた通りに呑み込む素直さ、誰からも批判を浴びないように過剰に謙ってしまうひ弱さ、それらが入り混じって「はずれなさ」を求めてしまう言語は、見方によっては確かに面白いが、結局は伝えるべき本質を遠ざける危険性がすごく強いものだと思う。
 それは最終的に我が身を守ろうという意識が優先されていくことと無関係でない。

 方言のところで、歴史ドラマにおける西郷隆盛と大久保利通の、話す言葉についての指摘があり興味深かった。現実とかけ離れている点はあるだろうが、きっと求めるものが違ったから言葉遣いも違っていったんだろうなと考えたりする。二人の功績の優劣をさておいて、心と言葉の結びつきの強さに思いを馳せる。それは人として一貫性のようなものではないか。


 さて、対談の最後には国語教育への批判が展開される。

 (清水)立場、場合、状況によって言葉を選んでいく。このことに気づく教育をすべきだと思っています。
 (金水)立場、目的、そして誰に向かって伝えることなのか、受け手を想像しながら言う、書くということが、国語教育の中で欠けている気がします。

 こう語られた内容については、ここ十数年はずいぶん強調されてきたことである。
 しかし、二人の現状認識がまったく間違っているとは思えないし、教育内容としてまだまだの部分は確かにある。

 問題なのは、表面上はずいぶんと「向上」しているように見えるその力に内実が伴っていないということではないか。
 学校教育で練習している「質」が、そのよさや効力を実感させるものになっているかどうかが問われているのではないか。

東北在住者の一つのテーマ

2013年05月14日 | 読書
 『稲穂の海』(熊谷達也 文春文庫)

 昭和40年代の東北地方を舞台とした短編集である。
 『山背郷』(20年代の狩猟者など)『懐郷』(30年代の女性など)という時期、設定は違うが、似たような短編集がある。
 二つとも既読だが正直あまり印象は強くない。
 作者の場合はやはり長編物が優れていて、ぐいぐいと物語のなかへ引き込む魅力が放たれてくると感じる。

 と言いながらも、同じ東北地方に住む者として、そして同世代としては共通項が多く、この著もするーっと入ってくる感覚はあることは確かだ。
 特に今回の時代設定の40年代は、少年期を過ごした時期なので記憶に残る背景がたくさん散りばめられていて、読みやすかった。

 作品の出来不出来を批評できるほどの能力も、読み込む忍耐力もないのだが、作者が描こうとする芯は伝わってくる。
 要するに「生の充足感」を何から得るのか、という点につきる。
 得意とする狩猟モノは言ってみれば分かりやすい素材だが、平凡な日常的な仕事や生活の中に、物語を入れ込み、その点を際立たせようとするのだから、テクニックがいるだろう。

 表題作である「稲穂の海」は、高度成長期に稲作の減反を迫られた村の青年が、同窓会でのある出来事を通して自らを振り返る結末になる。それはまさしく象徴的な姿であったし、当時おそらく似たような体験や思いを持った若者は、この東北で、いや全国の地方に何万と存在したのではないだろうか。
 他県の大学に入った自分であっても皆無とは言えない。

 主人公にこう語らせている。

 こうすれば素晴らしい未来が拓けると、正しい選択肢を誰かに示して欲しいと切実に思う。しかし、他人を当てにしようとしていることが、そもそもの間違いなのかもしれないとも思う。

 政策や時代を誘導する風に絶えず翻弄されながら、こうした逡巡を幾度も重ねただろう。結果それを「力」に出来たか、何かの形で「望む姿」にできたか…そこが肝心だろうと単純に考える。
 もちろんそういった結末は、小説の中では語られないが、だからこそ終末に描く姿や表現が大事だと思う。

 「稲穂の海」では、主人公が鎌を使って稲を刈り取る姿が描かれている。それは減反政策によって来年の秋から稲を実らすことのできない田圃なのである。
 「償い」という言葉で締めくくられていたが、実はそこで刈り取りられたのが「今までの自分」という解釈も成り立つ。
 稲穂の海の一部は無くされたが、その現実に直面したことで「海」に立ち向かう自分が踏み出せたとすれば、そこには希望がある。

 「喪失から希望へ」…そんな表現を使えば、他の短編もそんなふうに括ることができそうだ。
 それはもしかしたら東北に住む者としての古くからの歴史的なテーマであり、言うまでもなく東日本大震災という出来事によって、さらに突きつけられた感もあることではないか。

 仙台に生まれ、住み続ける作者が、大震災後にどんな話を書いたのか。
 未読であるが、この春に発刊された新作『烈風のレクイエム』(函館が舞台らしいが)は文庫化前であっても読んでおくべきかなと思っている。

雑誌の樹にとまりながら

2013年05月13日 | 読書
 『本』(講談社)5月号より
 原発事故により汚染されたエリアの木を全て伐ることはできないと,誰しもが思う。しかし歴史上にはそんなことをした人物がいた。豊臣秀吉は木炭調達のために中国地方の木を伐りまくった史実があるそうだ。経緯も目的も全然違うので比較できないが,私たちの時代は常に実現できない危うさで成り立っている。


 『波』(新潮社)5月号より
 女優高峰秀子が自らを「成れの果て」と称したことがあった。この言葉がどうして「落ちぶれた末の姿」を表すのか,ひっかかった。「成る」の受け止め方は肯定的ではなかったのかと辞書を引いた。「発生」「完成」だけではなく「変化」という観点があり「なり果てる」そのものの意味もあったことに少々驚く。


 『ちくま』5月号より
 「美術,応答せよ!」という連載がなかなか興味深い。対話による鑑賞という国語科との関わりも見えてきたのは嬉しいが,肝に銘じたいことを今回一つ見つけた。筆者曰く「作品は明快に解説されたとたん,その範囲内の小さな世界にやせ細ってしまう」…対話は,作品世界をやせ細らせるために行うものではない。


 『プレジデント』5.13号より
 「日本流『いのべーしょん』」という造語の発想に刺激をうけた。イノベーションとの「起点」「アプローチ」「推進者」「成功のポイント」を比較して考察されているが,特に起点の「ビック・コンセプト」に対する「現場の気付き」に納得。この発想で教育全体の仕事も推進されるべきだ。核はそこにあるのだ。

彼岸へ向かう道

2013年05月12日 | 読書
 もし、若い頃どこかで間違っていたら(間違うほどの才能も度胸もないことは承知のうえだが,まあ)、自分も宮沢章夫のような世界の片隅で暮らしていたかもしれない。
 そんなことを時々考える。

 それは大学時代にある劇団と関わったということもあったりするが、それ以前から、なんか似たようなことを書き散らしていた記憶を、懐かしくちょっとした輝きのように思い起こすからかもしれない。

 「伝説」(自分以外誰もそう呼ばないけれど)の「2Dノート」に、ギャグを散りばめて、わけのわからないストーリーを書き、高校の教室内を回覧させたのは紛れもなく自分だった。

 連休最後に読み始めた宮沢章夫の初期のエッセイ集『彼岸からの言葉』(新潮文庫)に入り込むと、またその頃の感覚がよみがえってくる気がした。もちろん書いている中身もレベルも桁違いにかけ離れているのだが、目のつけどころや発想の近さにシンパシーを感ずるのだろうな。

 「彼岸の人」「彼岸のゾーン」「彼岸の言葉」「彼岸の物語」…これらの意味する「彼岸」を別の言葉に置き換えようとすると、いくつか候補はでるが、ぴったりと収まる言葉はなかなかない。

 それだけの包括する範囲の広い言葉であるようだ。もちろん「彼岸」なのだから。

 あえて、そこに近づくための極意!を探してみれば、まず常識的な「空間・時間」に関心を深く持つことが挙げられる。
 また、ある問いに対して、返答者が見せたわずかな間や表情を見逃さない。
 何より「言葉」に対して、追及していく好奇心。
 これは、一面では「ありきたりの言葉を疑うこと」、もう一面は歴史や常識によって手垢のついた言葉の、「手垢」の方に目をつける感覚、あるいは、信じきっている言葉の「信じ方」に興味を抱くこと。

 そしてそのまま、言葉を抱いて突っ走れば、その道はもはや彼岸に向かう。


 一昨日の夕食時、家族と最近の小さい子どもたちの(読めないような)名前について話題をしていて、わたしが言い始めたことに団欒の場が微かな疾走を見せた。


「オレなら、一文字の名前をつけるな」

「えっ、『一』と書いて『ハジメ』と読むとか」

「いやいや、一音だ。『ヌマザワ ア』とか『ヌマザワ イ』とか…」

「えええっ、それなら『ヌマザワ ス』がいいじゃない。ヌマザワスゥゥと言えるし…」

「いや、『ヌマザワ カ』もいいぞ。ヌマザワカァァァなんてイントネーションでどうにでもなる」

「じゃあ、『ヌマザワ ダ』も男らしくいい」

「妹は、『ヌマザワ ネ』になるのかな」
……


 豚肉の塩麹漬を食しながら、こんな話を延々と続ける。
 食卓は、彼岸へ向かう道と化した。

身の丈を自ら測る

2013年05月10日 | 読書
 『エピソードで語る 教師力の極意』(石川晋 明治図書)

 「わかりやすさ」という点で言えば、この石川さんの本は堀さんのよりずっとわかりやすい。
 それは、第二章「書く教師」から第九章「『交流する』教師」まで、小刻みに81のエピソードを並べたということもそうだが、それ以上に、第一章の最後で触れそして第十章で「提案」という形で示した「町医者」理論に、全部が収束されるような構成になっているからだ。

 著者の意図が明快に伝わってくる。
 そして挫折や突発的な体験を含め、広範囲なエピソードに彩られながらも、常に目線の一定している石川さんの姿を感じる。

 それは最終章に提示されたモデルへ行き着く(行き着いていないと言われるかもしれないが)ための筋道でもあり、意図的な選択の連続と言えるかもしれない。


 さて、「町医者」と言えば、最近(といっても今冬だが)のドラマ『ラスト・ホープ』を思い出す。
 http://www.fujitv.co.jp/LASTHOPE/caststaff/index.html

 先端医療を売り物にした総合病院のスタッフとして、様々なスペシャリストに交じって加わった一人の医者の物語だった。話の筋はその主人公の出生をめぐったことが背景になっていたが、その主人公が他のスタッフから「町医者」というあだ名で呼ばれていた。
 それはもちろん「町医者」からの転属を表わしているに過ぎないのだが、この「町医者」が一番よく患者に正対し、心に迫っていくという設定を持っているものだった。

 その意味で、目の前の対象にきちんと向き合い理解することから始まる教師の仕事は「町医者」に近いし、そういう存在が充実していくことは本当に貢献度が高いと考えられる。

 石川さんはこう書く。

 身の丈にあった適切な学び方を身につけましょう。

 確かにその通り。
 そしてそれはきっと「極意」なのだろうが、「じゃあ自分の身の丈は?」と、その時点で逡巡してしまう私のような者も結構多いのではないか。

 この本に書かれてある多様な、実に多様なエピソードの中に共通点を見いだせるのではないか…
 いやいや、まず自分という存在をよく観察、内省してみればきっと見えてくる…
 そうではなくて、目の前の子どもの触れ合いを通して感じるものだ…
 いろいろなことが思い浮かぶ。

 もしかしたら、自分の身の丈をどう測ればいいか悩んでいる人もいるのではないか。
 いや、今、身の丈は自分で測るものではなく、お上からの通達や周囲からの同調圧力で決まってしまっているのではないの…
 そんな穿った見方も出てきてしまう。

 ごく細かな私的なことを言えば、数年前私も石川さんを真似て「誕生日休暇」をとった経験がある。しかし公言するのはためらったし、それ以降は行事と重なったりして、取れていない。もちろん「振替」もしていない。
 これは職場づくりという範疇に含められる自分にとって大事なことであるにも関わらず、この様である。こうした意識が及ぼしている範囲は案外広い。

 自分の「身の丈」を、この本で語られた様々なエピソードと結び付けられる人がはたして何人いるか。
 もちろん、部分的に共通性があることに意義づけしながら学びを強めていくことは大事だ。
 しかし、それも例えば「書く」が抜けたり、「対話する」がおぼつかなかったりするとき、町医者はただの藪医者で終わるのかもしれない。

 なんだか偏った危惧だけが浮かんでしまった。

 しかし、基本的にはこの町医者を目指す学びのモデルに大賛成であり、今自分がしているささやかなことが、そういった学びの浸透に少しでも役立ったらいいと考えている。

 それにしても著者自身も書いているが「格好良すぎる」文章がある。
 これは町医者の言葉とは思えない(笑)。

 私は、その後村上(春樹)に限らず、ほとんどの物語を読まなくなりました。私にとっては、自分の人生の物語が何よりもおもしろいのです

 そうなれば、一番の極意は「楽しむ」ということですね。
 
 もっともこれだけだと、藪医者モデルになりそうだが。

待つ心身をつくりあげる

2013年05月09日 | 読書
 『エピソードで語る 教師力の極意』(堀裕嗣 明治図書)

 (p160)私の存在が、私の現実が、私の肉体が本気で取り組みたくなるような対象をただひたすらに待つのです。

 これは極意と言えるだろうか。
 言えなくもない。しかし「凡人」が方法やコツととらえることのできない代物だと思う。

 「待つ」は教育において、いや人の生き方においても、大きな大きなキーワードだけれど、その行為を成す主体こそが問題なのだ。
 つまり、「待つ心身」。待つ心身をつくりあげることが肝心である。

 そのための「極意」をこの本から読み取るとすれば、それは「意識的・自覚的」であることではないか。

 堀さんは「意識的に取り組もうとすることは実はまずありません」と書いてはいる。がしかし、この本に書かれている大半のエピソードが、階層の違うレベルとはいえ十分に意識的・自覚的であることに間違いはないだろう。

 「振り子論者」「メタ認知論者」と称すること自体が、その証左であり、その過程の中で汲みとった意識について、わずかであっても読み手が強く響いてくるものを得られれば、この本の価値はある。


 さて,仮に国語科教師であってもよほどの読書量を持つ者でないと、堀さんの歩んだ道を正確に理解することはできない気がする。
 影響のある数々の文学者・研究者の思想や考えは把握できたとしても、その向き合い方や消化の仕方を単純にすうっと呑み込める人は何人いるのだろうか。

 曖昧な表現ではあるが、私はふと「業」のようなものを感じてしまった。
 おそらくそれは「文学」にどっぷりと浸ってきた著者の心身から放たれている感覚だ。
 もちろん文学と教育の矛盾について認識し、文学教育と言語技術教育の区分にも明確な、とことんメタレベルの位置にいる堀さんであることを十分承知しながら、そう感じてしまう自分がいる。
 たぶん、先の見えない物語を感じているからなのかもしれない。


 人の心の深いところに手を伸ばすために必要なもの。
 ある意味では、そのことについて書かれた本だ。
 それが見えない者や不足している者には、ここに書かれたエピソードは迫ってこないのではないか。
 正直、私にしてもイメージ化できないものがある。しかし、漠然としながらも踏みしめる足の重さは伝わってきた。この感覚は、きっとそれぞれの対象に向かって踏み出す鋭さや力強さから生じてくるように思う。


 いずれ、著者の考えている極意!の一つに「バランス」があることは確かだろう。
 そしてバランスの重要性を強調する一方で、振り幅の少ない歩みを考えている教師では、結局支点となるべき足腰は弱く、外からの揺れに対応できないんだよ、と諭すように示していることは絶対に見逃せない。

凡人,かく読み始める

2013年05月08日 | 読書
 この連休中に読まなきゃ,買ってもまたずるずるとバッグに入れたままだろうな,という思いがあったので,「エピソードで語る 教師力の極意」シリーズの堀裕嗣,石川晋両先生の本を急ぎ注文したのだった。

 読み始める前に,どうも「極意」という言葉が気になった。
 以前読んだ「教師力アップ 成功の極意」のときは何とも思わなかったのに,なぜだろう。
 たぶん「エピソード」という言葉のイメージから,教師像が立ち上がって,いわば著名な二人の教師のようになる「極意」という提示に疑問が湧いたのだろうか。
 「極意」が辞書通りに「奥義」という意味なら,それは書籍などで伝わるものなのか…そんな考えまで浮かんでくる。

 意味を確かめた紙辞書はどれも似たり寄ったりだが,ネットではどうかと検索したら「類語辞典」にたどり着く。
 ここは実に興味深い。
 http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%AE%E6%A5%B5%E6%84%8F

 なんと「達人などの知る極意」と「凡人などの知る極意」に区別されているではないか。
 
 なるほど。
 とすれば著者(いやこれは編集者の方と言ったらいいのか,著者とはまた別の考えかもしれない)は,どちらを主たる読者対象としたのか。

 普通に考えれば,「凡人」だろうわな…。
 そうすれば,このシリーズに書かれている「極意」とは,「秘訣」とか「方法」とか「コツ」のようなものなのか。

 いやいや,だからこそ「エピソード」なのかもしれない。
 つまりはエピソードという個別性,一回性の強い語りで表現することで,その受け取り方を読者に委ねようとする手法だ。

 ずるいよ,それは,って何にもずるくはないのである。
 著者の二人に深い関心を持って手にする人は少なくないだろう。
 それが凡人であれば凡人なりに,達人レベルであればそれなりのレベルで受け止めるだろう。
 ただ凡人の受け止め方をする限り,その有益さは結局のところ,ペーパー上で留まってしまうのかもしれないし,著者の伝えようとしたい意図をくみ取れないのかもしれないな…。

 そんな不安を抱えながら,凡人は読み始めた。

 比べ読みなどするつもりはなく,堀→石川の順で読了したが,なんとまあ同じシリーズにしては,すいぶんと肌合いの違う出来上がりなんだなと大雑把な感想を持つ。

 一冊ずつ読書メモしていこうと思う。

少しの揺らぎ,少しの恵み

2013年05月07日 | 雑記帳
 ゴールデンウィーク後半の4連休は好天に恵まれなかった。桜もなかなか咲かず,全般としては冴えなかったのかもしれない。しかし個人的には用事が初日の野球応援ぐらいで,あとはフリーに過ごすことができたので休養十分の期間となった。読書や映像鑑賞以外のことでいくつか記し,日記替わりとしておこう。


 ずうっと手をつけられなかった書棚整理を少しだけした。結局思い切って捨てられず挫折といういつもの顛末である。懐かしいミニ脚本が出てきた。卒業祝賀会職員劇のために「○○一家物語」を作った。今読んでも見事なストーリー。職員の個性と日常を描き切っていると自賛した。事情があり未演,幻の脚本である。


 満開ではないことを知りつつ隣市の公園へ。やはりまだ三分程度。それでも多くの家族連れがひっきりなしに来る。帰り際に,一人ギターを弾き唄っている男性を発見。宴会ではなく,ストリート(笑)なのである。しかも中高年。耳を傾ける人はわずかだが,桜前線を追って歌い続けている,と勝手に想像してみた。


 最終日,わずかに晴れ間がのぞく。午後からは崩れる予報だ。天候を考えるとまだ早いとは思いながら,春の恵みを求めて例年のフィールドに向かってみる。予想以上に今冬の豪雪による倒木の多さが目立つ。数十年の命がばたばたと倒れた姿を見て少し悲しかった。それでも息吹はある。ほんの少し恵みをいただいた。


 「桜咲かねども」と題して,別の花々のショットを撮ってみました
  http://spring21.cocolog-nifty.com/blog/

鉱脈へ向かうエネルギーを

2013年05月06日 | 読書
 連休読書の3,4冊目はこれだった。

 『ボックス! (上・下)』(百田尚樹 講談社文庫)

 今を時めく人気作家と言ってもいいだろう。
 『永遠の0』をはじめ文庫になっている数冊を読んでいるが,まったく外れがない。

 この作家の取り上げる題材の多彩さにかけては,あまり例がないように思う。
 『ボックス!』はボクシングを扱った「青春小説」という区分らしい。
 上下巻合わせて800ページに及ぶ長編だが一気に読ませる魅力がある。

 ボクシングというスポーツについては,冬に読んだノンフィクション『「黄金のバンタム」を破った男』でもわかるように,著者自身が経験者であるゆえに実に細かく描写,説明される。
 ある意味では,ボクシング競技の入門書といっていいほど詳しい。
 アマチュアボクシングを観戦するうえでの基礎知識がばっちり付いた気になってしまう。

 しかし,もちろん一番の魅力はそこに描かれる人物たちの躍動する姿である。
 そこに浸って読み進めていけば,読書の醍醐味が十分に味わえる。

 それにしてもまあ,どうしても職業的な目で読む習性がついていて,教育論,上達論を探してしまうのは悲しい性ではあるが…。
 今回はこれ。

 才能の鉱脈

 なるほどの表現である。
 ボクシング部監督の沢木が言っている次のことは突拍子もないことだが,完全否定できない真実である。

 「テレビで,タイガーウッズを見てすごいなあと言うてるおやじの中には,きっとウッズ以上の才能を持っている奴がいるはずです。」

 それはまた特定の個人のことでなく,人それぞれに才能の鉱脈がどこかにあるという意味でもあるように思う。

 日々子どもに接する私たちが,その鉱脈に気づかせられるとしたらこれ以上嬉しいことはない。
 しかし,それは意識してできるようなことでもないだろう。
 それ以上に肝心なのは,せめてその鉱脈へ向かうエネルギーを削ぐことのない存在であることかもしれない。