すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

痛みに寄り添う人(笑)

2019年11月19日 | 教育ノート
 先週、右足痛が生じたことは書いた。昨日はなんだか口の中が変だ。歯が沁みているのかなんだかわからない痛さだ。さらにいつもの頭痛。これは慣れっこだが、こう続けざまだとちょっと辛い。追い打ちをかけるように、外仕事で重い材木を左足親指に落とす。全身痛みだらけで思い出した文章…たぶん、2001年だ。


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 11月25日「痛」

 23日の朝から胃痛に悩まされた。なかなか収まらず、横浜方面への職員旅行へ出かけたはいいが、一人早めの帰宅となってしまった。痛みには結構強いほうと思っていたのだが、耐えているとやはり体力を消耗するらしい。痛み防止のためしょっちゅう食べ物を口に入れていたわりに、体重が少しおちていたことにびっくりした。

 数年前に入院した時の痛みもひどかった。手術後の一日、そして毎朝繰り返される医師による触診のあと、ベッドに倒れこむ毎日が続いた。看護婦さんに「我慢強いですね」と声をかけられたこともある。ふだんは何か身体に異常が生じると、すぐ対策をとりたくなる性質(たち)だが、振り返るとそんな時もあったのだなと思った。

 痛みに耐えられるためには、次の二つが必要かなとふと思う。

 ひとつは「なぜ、痛いのか」という原因、理由がわかっていること。もうひとつは「いつかはおさまる、こうすれば治る」といった見通しがわかっていること。この二つがはっきりしていると痛みに耐える自分に価値を見出すことができるから、そんなに苦痛?ではない。原因もわからない、見通しもたたないでは不安という心理的要素が痛みを増大させ、人は参ってしまうにちがいない。

 今、この国の首相が口にしている「痛みの伴う改革」もその点がしっかり把握できていればそんなに辛くはないと思うのだが…。原因はそこそこわかるけれど、見通しは明らかに悪い。

 「痛」はやまいだれに、甬(ヨウ)と書く。甬はもともと道という意味がある。これからの痛みは、病を克服する道になるのか。病だけの道になるのか…。

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 今読むと、なかなか若いのう。

 「病と寄り添いながら歩く道」とまとめてみたいが、それだとあまりに老齢っぽいか。

ソサエティ5.0とテロワール

2019年11月18日 | 雑記帳
 先日のある会で挨拶に立たれた県関係者が「ソサエティ5.0」という言葉を使われた。認知度はどの程度だろうか。私自身は初めて聞いた。若干の説明もあったのでおおよそ理解できたが、帰ってから改めて調べてみると、もう「政府広報」としてサイト化されているのだった。ページ内にある説明は以下の通りだった。

「狩猟社会」「農耕社会」「工業社会」「情報社会」に続く、人類史上5番目の新しい社会、それが「Society(ソサエティ)5.0」です。第4次産業革命によって、新しい価値やサービスが次々と創出され、人々に豊かさをもたらしていきます。
(政府広報 https://www.gov-online.go.jp/cam/s5/)

 確かにそんな進み方であることはぼんやりとわかる。ただ、つけられた名称が「超スマート社会」というのはカテゴリーが違うように思う。スマート化とは最近よく耳にするが、スマートという語と個々の人間はどう結びつくのか。技術革新は大歓迎だけれど、日々の仕事や暮らしが底上げされ、充実が実感できるか。


 NHKの番組を観ていたら、もう一つ印象的な言葉と出会った。「テロワール」である。この放送は、日本酒が世界各地で作られるようになっていることをレポートしたものだが、フランスのワイン造りにおける特徴ある語句として使われたのだった。その概念は、日本酒づくりにおいても当てはまる方向を示していた。

 ネット上にあった説明を引用してみよう。

 テロワール【terroir】:フランス語の「terre(土地)」から派生した言葉。例えば、ワインの味わいに関係するぶどうの生育地の土壌、地勢、気候、人的要因などの特徴を説明する場合などに用いられる。



 グローバルローカルという二語がよく対比されるように、この二つ「ソサエティ5.0」と「テロワール」も、カテゴリーは異なるが、今後の生き方を考えるうえで芯となる発想と言えそうな気がする。つまり、どこまでも拡大、連結していく社会空間の中で、それぞれの個が居つく環境にこだわる重要性である。


 テロワールという概念は簡単にはわからないものだと言う。英語や日本語には適当な訳語がないそうだ。しかし、その精神は理解できる。その土地に生まれ、自然環境、人的環境等々に影響をうけた育ちを丸ごと受けとめた思考や行動様式と言えまいか。それが薄ければ、つながりが創出を生んでも豊かさとは呼べない。

いよいよ雪マークか

2019年11月16日 | 雑記帳
11月11日(月)
 久しぶりに朝の散歩をしたら、顔にあたる風がひんやりした。今季初めて感じた冷気だ。今日は令和元年ということで「1.11.11」の日付が話題になっている。気持のいい並び、そして小春日和。仕事は休みの日なので自宅周りの植木をしばるなど、冬囲いの真似事をした。今週は天気予報にいよいよ雪マークが登場する。


11月12日(火)
 図書館主催で「小さな朗読コンサート」が開かれる日。講師であるあさのあつこさんをホテルまで迎えにいく。有名作家は気さくであった。午後からの本番、スタッフや朗読した中学生たちが頑張ってくれ、滞りなく終了した。「書くことは、ひっかくこと」という講師の一言が心に残る。自分はひっかきだせているか。


11月13日(水)
 2時間勤務後、午後からの県青少年健全育成大会に出席するため役場担当者と共に秋田市へ向かう。功労者表彰に続き、講演、コンクール最優秀者の主張発表、アトラクションの太鼓発表がある。いずれも頑張っているが、つい批評的に見てしまう自分に気づいて反省。講師の一言「『期待感』で見守ろう」を心に刻む。


11月14日(木)
 昨日から右足痛。冷えなのか、一昨日から動き回ったことが響いているか。齢を感じさせることが続くのはやむを得ない。天気予報は初冠雪を示したが、夕刻にほんの少し白いものが落ちただけの初雪となった。下着を長袖に切り替える。このタイミングもずいぶん早くなった。おまけに腰用ホカロンまで準備する。


11月15日(金)
 今日は終日勤務。図書館報作成やイベント構想とあるが、一番頭を悩ませるのは予算編成への準備。削られるのを覚悟しつつ、担当者と断続的に打ち合わせや確認をしている。午後、2時間ほど町の主張作文審査をする。こちらも来月の大会に向けて大詰めだ。冬に向かう時期、まさに北風よりも太陽が恋しくなる

才能が愛情へ昇華する

2019年11月15日 | 読書
 「じゅんあい」と電子辞書に打ち込むと「純愛」しか載っていない。PCワープロでは候補として他に「順愛」と「殉愛」が出る。「順」は従う、一途なというイメージか。「殉愛」だと日本国語大辞典に見出しがあり「ひたむきな愛を貫くために、命を投げ出すこと」と意味が出ている。愛に殉じるという表現は美的だ。


2019読了102
 『殉愛』(百田尚樹  幻冬舎)



 この本が話題(週刊誌の暴露合戦?)となったのは五年前だった。その時の記事等まったく読んでいないが、ずいぶん騒がしかった印象がある。この本は最終的に「やしきたかじん」の闘病、逝去をめぐっての金銭的なトラブルに絡むが、そこまでの道程が作家の筆力によって巧く構成され、結構読み応えがあった。


 ジャンルとしてはノンフィクションと呼べるのだろうが、やはり小説なのだと思う。やしきたかじんという非常に個性的な人物を取り巻く、人間や社会の姿を表現していることは違いなく、主人公といえる妻やそれを支える人々、そして反目する人々の心理が余すことなく伝わってきた。作家の目と筆を通した物語だ。


 エピローグの冒頭「読者にはにわかに信じられないかもしれないが、この物語はすべて真実である」と書き出されている。その判断が必要なのかどうかわからない。いずれの立場に立っても利害はあり、当事者として関わっても関わらなくとも「真実」は一通りではない。人は、事実の中にある信じたいものを信じる。


 やしきたかじんという「才能」が「愛情」へ昇華されていく物語という見方もできよう。この「才能」はずいぶんやっかいな特質を持っているが、それゆえ惹きつけられる者も多かった。その中で最大限アピールした相手が、最終的に包んでくれる存在になった。妻の殉愛記であると同時にたかじんの殉愛記でもある。

九州場所、熱狂したい

2019年11月14日 | 読書
 大相撲九州場所が始まった。今場所もいくつか見所があるが、それは終わってから総括したい。ところで、当然とは言え「相撲」と「大相撲」をいっしょにして考えてはいけないことを、この新書で改めて認識を強めた。相撲という格技の面白さと同時に、大相撲の持つ形式の深さや魅力について考えさせられた。


2019読了101
『大相撲の不思議』(内館牧子  潮出版社)



 著者と元横綱朝青龍の確執が話題になってから何年経つだろう。朝青龍が左手で手刀をきり懸賞金をもらう仕草に奮然と抗議したことに、彼女の大相撲愛の典型がある。「右は浄、左は不浄」の概念に基づくが、伝統と作法が結びつくから今に生き残り続けるという信念は揺るがない。朝青龍に向けた一言は重かった。

自分が身を置く伝統社会を舐めている。

 この言葉でふと昨年横綱白鵬が優勝した折の「万歳三唱」が物議を醸しだしたことを思い出した。視聴者の一人としても明らかに違和感を持ったあの万歳。この新書ではその件に直接触れていないが、布石となる「万歳事件」があったことを知る。それは2010年の九州場所で、白鵬の連勝を稀勢の里が阻止した時だ。


 その時、九州場所の観客は、稀勢の里が白鵬を破ったことに熱狂し、「バンザイ」を繰り返し大合唱した。この一件が白鵬の心のあり様を変えるきっかけになったのではないかと記す。以下は全くの私見だが、それが尾を引き、自分に対しても「バンザイ」の声が欲しかった思いがあのような行動をとらせたのではないか。


 ところで、横綱が敗れた場合、座布団が飛ぶのが通常?だが九州場所では出来ない。なぜか。升席の座布団は四枚縫ってつながれている…こんなミニ知識も豊富な一冊だ。著者は座布団投げは肯定的。熱狂を示す行為として容認している。協会と認識が異なる点も独特で読み応えがあった。ともあれ九州場所、熱狂したい。

久しぶりに「食う」を書く~後編

2019年11月12日 | 雑記帳
 海辺の温泉で一泊した。ネットで見つけた料理コースに惹かれて、選んだ場所だ。食材は「あわび」。何度か刺身や蒸し料理で食したことはあるが「ステーキ」とあったので、ここはぜひお目にかかりたいと奮発した。お待ちかねの夕食。漁港が有名な土地なので、魚料理は見事だ。ステーキが登場する前にも驚きが…。



 「カジキマグロのかぶと煮」…自宅でも「かぶと」類は好きなのでたまに登場するが、「三日間煮込みました」というその姿は豪快だった。中くらいの取り鉢にお代わり自由で盛り付けてくれるという。実に柔らかく、骨まで全部食べられる。味は濃厚でとろりとしている。なかなか、こういう食感にはめぐりあわない。


 さあ、メインの鮑ステーキ。ビジュアルだけで美味しさが伝わってくる。



 刺身にも三切れ鮑があり、しこしこした食感を楽しんだのだが、やはり熱を通してバター等を使ったソースで食べる味わいは文句なしだ。肝は苦みが薄く食べやすい。それが物足りなく感じるほどだ。しかし料理としては名品なのだと思う。


 おまけに「朝食バイキングの憂鬱」を一言。どうしてもあれもこれも取ってしまう性癖に呆れる。しかし、朝食会場を見渡せば、多くの人が似たような状態だ。わずかな外国旅行体験から想うに、欧米の人たちはそんなことがない。これは日本人の未成熟な姿の一つではないかと仮説を立てる。まず己から成熟せよか。


久しぶりに「食う」を書く~前編

2019年11月11日 | 雑記帳
 久しぶりの「食べびと」ネタ

 紅葉見がてらに隣県岩手へ「うまいもん旅」に出かけた。最初の目的地散策を終わって少し早めの昼食を、ねらっていた蕎麦店でいただくことにした。11時半前についたが、もうすでに10人を超す先客が席についていいた。古民家風の造りが渋い。JAZZ風の音楽が重厚なスピーカーから小さく流れている。


 二人で切り盛りしているようで、時間がかかると予告掲示もあった。覚悟を決めてじっくり観察しながら、待つことにする。驚いたのは、最初に注文した「古典そば」という品が、もう終わってしまったとのこと。さらに、私たち夫婦が座って10分過ぎた頃に「もう今日は終わりました」と来客が断られ始めたのである。



 で、そこから30分近く、周囲の食べる様子を眺めつつ待ちわびていた。そして登場したのがこのせいろそば。



 味は…まあまあというか、納得できるレベル。価格は高いが、これは蕎麦だけではない店の雰囲気代もあるのかなという感じだ。こだわりを端的に示すのは蕎麦湯だった。これほど濃厚で飲みごたえのあるものは、今まで経験がなかった。



 自称「羽後のたべびと」としては、もちろん「味」が最大限の評価ポイントである。しかし、やはり食べる空間・時間の充実さは欠かせない要件になるだろう。店の雰囲気や接客はもちろん、その食物に込められる物語(作り手の願い、素材、生産者等)なども入ってくるようだ。そう考えると、やはり食の世界は深い。

ラグビーと現実と打開策と

2019年11月10日 | 雑記帳
 ラクビーWカップは、世の中にたくさんの話題をもたらした。「にわかファン」とまでは言わないにしても、あれほど露出が多いとどうしても耳目に残ることが多い。ラジオで聴いた一言が忘れられない。そのパーソナリティが一緒に観戦した友人は、終わった後にこう言ったそうだ。『ラグビーっていいスポーツだねえ。


 「面白い」ではなく「いい」。多くの思いが詰まっている表現だ。その中味はたくさん語られている。ところで、こんな文章を見かけた。「俄然注目されるようになったラグビ―というゲームには、世の中の現実というものが詰まっている」。地方再生を目指して精力的に活動している『里山資本主義』の著者藻谷浩介氏だ。


 つまり、パスをされボールを持った選手は前進しようとするが、必ずタックルされ「袋叩き」に遭う。それでも勇気を持って苦闘する人たちの姿に重なるということだ。そこにはトライの難しさ、スクラムのあり方なども含まれるだろうか。現実改革を目指す者に対して敵は多いし、真に協調体制を築く困難さは高い。


 その打開策を競技のなかに見つけようとすれば、あのカッコいい「オフロードパス」の場面が目に浮かぶ。むろん、そこには複数の理解者が必要なわけだが、パスを受け走る者が敵をかわすためには予想や効率重視のルートではなく、意外性を持った流れが有効になる。真っ向勝負にあっても冷静な作戦意識を忘れない。

百冊目の決意

2019年11月09日 | 読書
 一昨年ドイツに旅行し、湧きおこった一つの問い。それは自分とその周り、そして社会のこれからを考えるうえで、非常に大きな意味を持っている。「老人たちは、なぜあんなふうに幸せな表情をしているのだろうか」…これは、現実にその場へ出向いたからこそ体感でき、帰国してからも深まっていく問いとなった。


2019読了100
『人口減少社会のデザイン』(広井良典  東洋経済)



 FBを通じておススメがあった本。類似した内容の文章を読んだこともあるが、新しい知見も多く、今私たちの置かれている現実を検証、解読し、実に明快な論が組み立てられている。自分の中で散在していた思いや考えを見事につなげてくれる一冊だった。ドイツの街づくりにも触れられていて、大きなヒントを得た。


 一つは「居場所」という点である。自分の目で見たドイツの都市では、街じゅうに多数の高齢者が居た。翻って日本ではどうか。都会はともかく地方では真っ先に挙がるのが病院だろう。休日であっても人が集まる場はかなり限定的だ。地域のコミュニティが盛り上がっている箇所もあるが、将来の見通しは見えにくい。


 当然だが、現状は歴史的営みの結果として生じる。国の政策によって進められたことが何を生んだか。便利になった交通手段、体系は何を物語っているか。今の少子高齢化という事態は、高度成長期に起こった人口移動が「タイムラグをへて別の形で顕在化している」という結果だと把握すれば、政策の見方も変わる。


 頻出する語がいくつかあるが、「持続可能性」はテーマの中心になっている。国の債務残高、借金が1000兆あり、将来へ先送りされている財務状況のなかで、「持続可能な福祉社会」を実現するため提起された方向性の多くに共感できる。少なくとも「拡大・成長を目指す昭和的な発想」には与しないと決めねばならない。


 →「えほんひらけば」更新

幸福も不幸もすべては

2019年11月08日 | 読書
 10年ほど前だったか、友人を前に「もっと我がままに生きることにした」と小さな宣言をしたことがある。その意識は短期間続いたように思うが、やはり気になる他人の目。しかし、時々自分に問いかける幸福論は、そこに囚われている限りどうにもならないと収めてはいるのだが…。かの作家、橘玲の言葉はキツイ。


Vol.181
 「これからの時代に重要なのは、『評判』だと私は考えている。徹底的に社会化された動物である人間にとって、幸福も不幸もすべては評判=他者からの評価で決まる。」


 さすがに、「言ってはいけない 残酷な真実」の著者である。人を不愉快にさせる言い回しには長けている。もちろんなぜ不愉快かと言えば、それは真実の指摘にほかならないからだ。「ゆえに貴重 ゆえに必読」と書いた読書メモも懐かしい。「評判を気にするな」は精神論であって、現実社会ではベクトルは逆なのだから。


 ネット社会が進んで、自分もこのようにブログやFBなどを使っている。その行為は、結局「評判」を求めていることに違いないのだろう。コメントや「いいね」が少なくとも、アクセスが増えればそれなりに嬉しい感情はわくし、その価値判断は個々によって異なるが、突き詰めれば利用者は皆、評判を求めている。


 ただ、評判を築く「他者」をどのように設定するのか、そこが一番肝心なのではないか。自分ならまず家族であり隣人であり、古くからの友人、敬愛できる知己が挙がる。その意味でネットの有効性は限定的だ。可視化された評判は重要だが、それに左右され振り回される心であっては、幸せはいつも振り落とされる。