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脳はNO!と言う「自己決定」

2019年11月29日 | 読書
 「選択」が教育のキーワードの一つとして叫ばれるようになってから、もうかなり年月が経つ。自主性伸長や個性尊重をよしと見て、自己決定(あげくは自己責任)を重要視した考え方だ。生活の場の拡大による必然性もある。よって教育も少し幅の広がりを持ち、いくらかそうした力も高まったようには見えるのだが…。


2019読了104
『脳はなにげに不公平』(池谷裕二  朝日文庫)



 かなり古臭い絵だが、教師が正答を求めて「ほかに意見は」とか「自分の考えを持って」とか言う場合はあった。また、それとは違う意味で「自分なりの意見をもつことは大切」という考えは、結構言い古されてきたのではないか。だから、現実はどうあれ、今多くの人は自分で判断することに不信感は抱いていない。


 しかし「自分が下す『判断』はとても曖昧」の項に書かれてあることは、それを覆す。米国の男女を対象にした会話デートの方法によって、予想と評価に関する研究をした結果、自分の主観の曖昧さは見事に証明された。つまり人は、「他人の判断をあたかも『自分自身の意見』であるかのように」取り入れている。


 これは無意識のうちに行われることで、自分はそうでないと考える人にも当てはまる。著者はこう言い切る。「私たちの知性は、知らず知らずのうちに他人の強い影響下に置かれた『傀儡知』です」。嗜好、評価、見積もりなど仕事や生活上の様々な点で関与していると認めてしまおう。そうすれば、楽になるではないか。


 自己決定とは言うが、人間がどうでき上がっているか考えると、ほとんどが「借り物」だ。ふと、朝ドラでイッセー尾形の演ずる絵付師が口癖のように言う「ええよぉ」を思い出す。包容力という名の周囲迎合型とも言える。しかしそれは、もしかしたら自分の一番の芯を守るための、利口な生き方ではないかと思えてきた。