すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

親父の小言を引き寄せる

2020年07月04日 | 雑記帳
 №1ビジネス誌を謳う雑誌が、折込付録としたのは「親父の小言」と「禅語36」。後者はわかるが前者は時代にそぐわない気がする。そもそも「親父」という権威が成立しない。しかし「親父の小言」は商標登録されているらしい。昔ながらに飲食店トイレに貼られる処世訓の元祖か。さて、心に迫る言、有りや無しや。



 福島県の古刹で昭和初期に作られた45カ条の小言集が、昭和30年代に檀家の商店が現代風に商品化し、38カ条にまとめたと記してあった。当時の世相からお土産品、贈答品としてヒットしたのだろう。実は、もともと江戸時代の嘉永年間に、その起源である和本が印刷されてあったことが近年発見されたのだという。


 「小言」には、不平、非難などの意味もあり、多くはそうした印象を持って受けとめる。「叱って戒めることば」として機能させるためには、そこまでの経過、双方の関係性が大きく左右する。このように格言的扱いで目にする場合は、歴史を経た言の持つ普遍性を、受けとめる側がいかに経験と重ね合わせられるかだ。


 なかには意味が汲み取れない言もあるが、自ら選ぶとすれば、次の三つか。「恩は遠くからかへせ」「不吉は云うべからず」「家内は笑うて暮らせ」…慎ましく安泰に暮らしたい気持ちが出てしまうのは仕方ない。しかしそれはまた一人の親父として、子や孫に伝えたいことでもある。自ら徹底できれば家訓(笑)となる。


 ひとつ気にかかったのが「怪我と災は恥と思へ」。不幸が振りかからぬ様に日常の注意を怠るなという個への戒めだ。ただ、コロナ禍や昨今の豪雨水害などを見ているとやむを得ぬ運命も感ずることがあるだろう。肝心なのはきっと、人によって災いが拡大にしない手立てを持つという心構え。これは個も組織も同じだ。

挫折読書もたまにはネ

2020年07月03日 | 読書
 6月は中旬まではやや乱読気味だったので、下旬は単行本小説を3冊借りてきてじっくり読もうと思ったが、うまく運ばなかった。『カザアナ』(森絵都 朝日新聞出版)は、平安期の異能者の流れを汲む者が、近未来の監視社会に登場する話。その設定の斬新さと、いつもながらの文章の巧みさには感心したのだが…。


 東京五輪後の社会が舞台であることは、この後の五輪実施の有無によって大きく変化しないとは思うが、ずれてしまった感もある。この作家にしては少しエンタメ過ぎて?途中から頭に入らなくなり、三分の二ほど読んで閉じてしまった。自分には珍しい。目覚めの早い高齢者読書(笑)なので、そのせいなのかなあ、


 まあこういうこともあるさと、次に手にとったのは『御社のチャラ男』(絲山秋子 講談社)。絲山作品は芥川賞の『沖で待つ』しか読んでない気がする。ある小説の解説に絲山の素晴らしさが書いてあったので、興味を持った。しかし、これまた朝のぼんやり頭には入ってこなくて、早々に断念し、図書館に返却した。



 最後は『希望の海』(熊谷達也 集英社)。これはなんとか読み切った。東日本大震災そのものを描かずに、前後の人間模様を描いた連作集だった。その設定があっていたか。しかし、気仙沼がモデルの仙河海市に住む様々な境遇、世代を織り交ぜて展開させていたが、地域描写が冗長な気がして、今一つの印象だった。


 散漫な読書になるのは、別に年齢のせいではない。しかし最近絵本読みの割合が増え、小洒落た設定、やや複雑な表現に目を背けたくなるのかもしれない。まだ活字を見ていたい性癖は残っているので、価値を見逃さない持久力、集中力の低下を食い止めねば…。いやっ、面白さだけでいいでしょと、もう一人の声が。

禍の中で考えを止めない

2020年07月02日 | 読書
 以前は5冊とっていた出版社PR誌を、今は『ちくま』と『波』にしている。好みと言えようが読み応えのある2冊が残った。今回は、新潮社の『波』7月号が特に興味深かった。書評・書籍紹介以外に「特集 コロナ禍を暮す」と題した新連載や特別寄稿があり、また対談もユニークな内容で、備忘として記したい。



 土井善晴は連載番外編として、コロナ禍の暮しの中で考えたことを記している。「食」という営みを突き詰めていけば、結局は持続可能な社会の在り様を考えることになり、今がいい機会であることに異論はない。「料理」とは自然と人間とをつなぐ行為であり、「ゆっくり」「ほっこり」するという目的に立ち返ることだ。


 内田樹が「カミュ論」という不定期連載を始めた。カミュについては門外漢だが、なぜ読まれ続けている文学作品があるかという考察には、普遍性を感じた。内田曰く「人は『所有しているもの』はできないが、『失ったもの』は共有できるという仮説を思いついた」。これは私たちの日常、歴史についても同様ではないか。


 隈研吾の新連載「コロナ禍を経て住処を考える」も面白かった。今の都市、建築の流れの発端は中世のペスト禍だとし、大きな「ハコ」による埋め尽くしが進んだという。そしてこの「オオバコ」建築は、この禍によって折り返し点に入っているという認識を示す。「秘策」とした「足す」発想は、変化を巻き起こすか。


 一躍売れっ子になったブレイディみかこのインタビューは、いつもながら多様性社会の生き方について考えさせられる。強調されたのは「教育のあり方」。英国では保育の大改革から始まったという。それは1998年だ。ますます見通せなくなる未来に、我が国はどのくらいの骨太の精神を持って礎を作ることができるか。

半夏生に栄養ドリンク!

2020年07月01日 | 雑記帳
 新聞の折り込み広告チラシに「半夏生」とある。いわゆる雑節で七十二候の一つ。そこにはスーパーらしく「タコを食べるとよい」と書かれてあった。実際の時期とはずれるが、田植え終了も意味するので、作物がタコの足のように、大地にしっかりと根を張ることを祈願するといった意味が込められているそうだ。


 こうした気候の変わり目に、作物に大事な天候に祈りを捧げたり、作業続きで疲れた身体を休めたりする意味合いも込められていた。調べたら「タコには、アミノ酸の一種であるタウリンが豊富に含まれ、疲労が増してくるこの季節に食べるのは、栄養面からみても理に合う」と、後付のような価値も添えられていた。


 いやそれは、昔から多くの人が自然と接し続けながら身につけた知恵なのだ。さて、自宅の狭い玄関前に塀代わりの植栽と共に三本背の低い樹木を植えてある。その一本は「夏椿」。今が盛りとなっている。しかし、ご存知の人も多いと思うが、この可憐な白い花は「朝咲いて夕方に散る儚い一日花」なのである。



 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」という、あまりに有名な平家物語冒頭の一節にある「沙羅双樹」の「沙羅」の木がこの夏椿とされる。残念ながら我が家には2本なく「双樹」とはいかないが、知ってか知らずかその日一日のために開く花は、やはり愛おしい。


 感染禍も地球の歴史上でいえばわずかな点でしかなく、それは私たち人間も同じ。今月の町広報原稿に引用した池田晶子の一節は「『たまたま』こういう時代である、『たまたま』私の人生である、とこう気づくと、人はすごく広い所へ出られます」だった。さあ、7月。ここはタウリンつながりで、栄養ドリンク一本だ。