すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

すべて適応度増大のため

2021年12月14日 | 読書
 My「オイオイ(老い老いもしくは追い追い)シリーズ」と呼んでいい選書だが、内容は先日読んだ『老いのゆくえ』とは全く違う。稀代の学者によって学術的エッセンスが散りばめられ、非常に興味深く読んだ。書名の問いかけに対して、結論は副題として掲げられていると言ってよい。つまり「遺伝子のたくらみ


『人はどうして老いるのか』(日高敏隆  朝日文庫)


 初めに、「加齢」と「老い」は「本来的にちがう」と切り出す。それは老いが「衰え」を意味しており、他者からの評価、扱いは低く、自身の感じる不便という印象が強いからだ。積み重ねたものの価値を多少は認められても、ごく普通に「年はとりたくないものだ」と誰しも語る。そして「なぜ」老いるのかを問う。



 生物に関して「なぜ」と問う時、それは二つの意味を持つそうだ。一つは「どういうしくみか」。もう一つは「何のために」。なるほど。ここで読者(少なくとも自分)が求めているのは、医学的事項ではない気がするから、後者に近いと思う。しかし著者は「老い」について「何のために」は答えようがないと書く。


 ところが読み進めているうち、あっさり結論的キーワードが登場する。「遺伝的プログラム」…それが定められており、遺伝子によって「すべてはそれにしたがって進行する」と語る。ただし運命論とはちがい、そのプログラムをどう具体化するかは、個体によって異なりまだ明らかにされていない点も多いという。


 以前はそのプログラムは「種族維持」のためと考えられていたが、今日では「一匹一匹の個体が自分自身の『適応度増大』のために」とされている。その中に「育つ」「育てる」というプログラムも組まれていて、自分の遺伝子を子孫に残せるよう運用される。「老い」はその役割からの段階的撤退とも言えそうだ。


 「死も遺伝的プログラムの一環である」という言は、「適応度増大」の深さを考えさせられる。遺伝子にとって、個体は「乗り物」に過ぎないわけで、自分の遺伝子を持つ子孫の負担が軽くなることは、死を迎える「本人にとっても得なこと」と記す。自分の「適応度」を「満足感」と置き換えられれば、幸せである。

誰しも、あの屋根の下に

2021年12月13日 | 読書
 2016年から18年まで3年続けて、それまで叶わなかった海外旅行を楽しむことができた。この状況となっては非常にラッキーだった。それなりの感想をこのブログにも残した。世界が拡がったなんて大袈裟なことは言わないが、今でも旅先の地名や景色が出てくると、反応してしまう。何気なく借りた一冊もそうだった。


『クリスマスを探偵と』
(伊坂幸太郎・文 マヌエーレ・フィオール絵 河出書房新社)




 『文藝別冊』に収録された短編小説を、クリスマスの話だしプレゼントにもなるようにと絵をつけて単行本化した本だ。著名なイラストレーターらしい。南ドイツの雰囲気が出ている(ような気がする)。城壁に囲まれたローテンブルグという小都市が舞台となっていて、クリスマスの一夜の出来事が描かれている。


 恋人たちのロマンティックな場面や家族の楽しく穏やかな思い出などは登場しない。育った家庭に巻き起こる諍いや、プレゼントをめぐって起きた決定的ともいえる揉め事を、主人公カールはベンチで隣り合わせた男に語り、その男が一連の出来事を独自解釈しながら、会話が重ねられていく。軽妙な伊坂ワールドだ。

 
 「こじつけ」を「可能性のゲーム」と置き換えながら進む話の内容は、クリスマスやサンタクロースに関する歴史的な蘊蓄を盛り込ませ、探偵のカールが追っている一つの案件、それに伴う自らの生き方と結び付けられていく。真実かどうかは伏せられた終末だが、一つの「聖夜の奇跡」というとらえ方もできよう。



 さて、ローテンブルグ。確かにあの城壁は印象深かったし街並みは独特だった。ただ観光地にはなっているが、一つ一つの家々には確かに住人がいて暮らしが営まれている。人は誰であっても、振り向いてみれば少しは秘密めく裏のありそうな物語があるだろう。そう考えると可能性を信じる心、楽しむ心が豊かさになる。

老いを育てる人

2021年12月11日 | 読書
 先年亡くなられた、私にとって恩人であるS先生は、奥様を亡くしてから一人暮らしを続けていた。たまに訪問する時、目立ったのは家じゅうの貼りものであった。おそらく発生し続けるモノ忘れ対策、そして注意喚起。自分を維持し生活を営むための意志を感じた。教育者であった目は自らの「老い」に向けられていた。



『老いのゆくえ』(黒井千次 中公新書)


 著名な作家だが小説は読んだことがない。この新書は新聞夕刊に月1で連載しているエッセイの書籍化で同じ形での三作目になるという。書かれている内容は9割が老いに伴う身辺雑記、いや心身雑記というべきか。似たようなことの繰り返しに見える記述が、「読ませる」のはその自己観察と内面洞察の深さだ。


 著者は来年卒寿であり、自分にはまだ遠い…と思っても予感めく将来でもある。この書名が意味するところは、「死」でしかないという生物的結論は当然だし、そこから目を逸らしてはいけないと考えつつ、本気にもなってない我が身への予防接種のように読む。さて、この接種は何度受けたらいいのでしょうか。


 「整理で出現した過去」という章に共感した。プロの物書きほどの資料を持っているわけではないが、思いつきで整理を始める性癖を持つ自身を訝しがってもいて、この一節は忘れないだろう。「何かを棄てる時、決め手になるのは対象の要、不要ではなく、持ち主である自分とその相手との関係の切実さではないか


 6年前に大整理をし、それから幾たびか見直したが、近頃は「関係の切実さ」が違う局面を迎えているので、少し気合いを入れて整理したい。その結果きっと残る「未整理」な箇所がそっくり自分自身なのだと思う。「結局辿りつくのは、他人は他人であり、自分は自分」という諦念が、「老いを育てる」基本なのか。

幸せはもみの木に

2021年12月10日 | 絵本
 図書館イベントはクリスマスシーズンなので、その時季にふさわしい絵本を選ぶ。複数行うが、私の担当は「絵本クイズ」なので、時間制限もあり5分ほどで読める話はないか、クイズにできそうかが選書のポイントだ。題名にふさわしく小さな体裁の一冊を見つけた。サンタクロースや子どもが主人公ではないが…。


『ちいさなもみのき』
 (F・ムニエ作 D・エノン絵  ほるぷ出版) 




 丘で育った「ちいさなちいさなもみのき」が主人公。遠くに見える森に憧れていた。ある日、他のもみの木とともに、デパートの前でツリーとして売りにだされるが、さすがに小さく最後まで売れ残る。おじいさんとおばあさんに「すてきなもみの木」と買われていき、二人の家で飾りをつけられクリスマスを彩る。


 クリスマスが過ぎて、他の家のもみの木が捨てられていくなか、ちいさなもみのきは、おじいさんとおばあさんに裏口から外に出される。そこはなんと、丘に居たときに憧れていた高いもみの木たちの森だった。そこに植えつけられるちいさなもみのき…。なんと、ハッピーエンドなハートウォーミングな世界だろう。


 ここには「幸せ」のエッセンスが詰まっている。小さい大きいという見かけで何か決まるわけではないこと。年老いても二人でクリスマスを楽しむ暮らし。行先がどんなふうであればいい生き方なのか。場面ごとに掘り下げてみれば考えさせられる。むろん、絵本の世界に読み浸ってもらえば、今はそれでいいはずだ。


 で、実に野暮なことにクイズづくりをするのだが、ふと「ダウトをさがせ」という読書のアニマシオンの実践も思い出す。幼児中心とはいえ、設定や台詞はよく覚えているものだから、結構盛り上がってくれる。もちろん「絵本」なので、ことばだけでなく「絵」も取り入れてつくる。楽しみなのは教師だった性か(笑)。

『二番目の悪者』は相当の…

2021年12月08日 | 絵本
 読み切ると18分程度になる。読み聞かせに使った絵本としては『リンドバーグ』に次ぐ長さだ。内容は高学年以上だろう。今回、PTA研修として親子一緒の機会に恵まれ、時間が30分あるというので取り上げてみた。歯ごたえというか読みごたえ十分の一冊である。練習も含め、10回以上は通読したが足りない。


『二番目の悪者』
 (林 木林・作  庄野ナホコ・絵) 




 自らの外面に自信たっぷりの金色のライオンが、その行動で信頼を集める銀のライオンを貶めようと画策し、偽りの噂をばらまき、結果国が滅亡する話である。「ほんとうにこれがつくり話だと言えるだろうか」というプロローグが、作者の訴えたいことをずばりと記している。フェイクニュースという現実にも重なる。


 真っ赤な表紙絵が印象深い。またどのページも写実的なタッチを使い、展開に合わせて描かれるが、どこか演劇の舞台を見るようなイメージもあり、語りの重要性に気づかされる。金色のライオンの狡猾さや、初めは信じないが徐々にその言葉に翻弄されていく複数の動物たちの心理など、会話の文章にも流れがある。


 これはきっとBGMなどを準備し、複数の読み手で行ったら面白くなるというアイデアが浮かぶ。しかしそれはまたいつかの機会と考え、一人で多人数に聴かせるとしたら、正攻法だが「語り」と「台詞」の読み分けになる。複数の動物たちの会話はテンポなどで変化をつけたい。いい物語だが相当の覚悟も必要だ。

結構走っている日記

2021年12月07日 | 雑記帳
12月3日(金)
 今日は午後より某小PTA研修会ということで、親子揃っての絵本読み聞かせ。実にいい企画だなと思うしもっと広がってほしい。与えられた時間は30分。構成を考えるだけでも今までは違ういい刺激となった。終了後の自己評価は75点程度か。路肩に若干雪の残る峠道を往復したが、降り始めはやはり少し緊張する。


12月4日(土)
 町青少年育成町民会議の大会なので朝8時に会場へ。表彰のリハ、本番での挨拶等、まずは与えられた役目はこなした。まだ事業が残っているので感染の行方が気になる。報道は相変わらずオミクロン株、3回目の予防接種のことが中心、しかしどこか手探り状態だ。こんなふうに未来は続くか。腹を括る時は近いか。


12月5日(日)
 午前は図書館で今年最後の工作ワークショップ。親子や家族が一緒にモノづくりする姿はとてもいい。施設に親しみを感じてもらう意図が少しは通じているかもしれない。昼、自宅で週遅れのドラマ『日本沈没』をみる。フィクションとはいえ、今の世界情勢を象徴的に描き出しこの国の弱さをアピール(笑)している。


12月6日(月)
 休館日の朝は孫と外遊び。わずかな積雪でも幼い子にとってこれほどの遊び道具はない。その後来週のイベント用ゲームや景品探しに量販店へ。帰りに久しぶりに大好きな「ごますり餅」を買いに菓子店に立ち寄ったら、わずか5個しか残っていない。午後から今後のために絵本の下読み。またあの本で涙が出て困る。



12月7日(火)
 いろいろと準備を進める一日。午前中からこどもブックフェスタ用のPPTづくり。毎年クイズも担当するのでその内容も決めていく。途中でブログアップしたり、予算修正検討をしたり…。今日はこども園の迎えをしなければならないので16時に退勤して向かう。その後、100均でイベント用グッズをまた探す。

テヤンディ、ランドク

2021年12月06日 | 読書
 「偏った読書」とまた書きそうになる。別に正当や中道を求めている訳でないし、あくまでも趣味なのに何故そんなことが浮かぶのだろう。結局どこかに常識的なイメージから逃れられない割に、それから外れている自分を評価したい気持ちもあるのか…と癖あり気な書き方をして、全くお前さんときたら…と落語口調で…



『体癖』(野口晴哉  ちくま文庫)

 秋になってから読んだある本で紹介されていたので、書名も気になり注文していた文庫。著者の本はかなり以前にも読んでいる。身体の本質を考えさせられる内容だった。
 今回、実は肝心の「体癖」の各論は難しく読み切れなかったのだが、初めの「人間における自然ということ」の30ページあまりは非常に刺激的であった。
 人間の世界は確かに進歩したが、人間自体の心身は昔の人より劣っていることが多々あるとは、幾多の賢者たちが指摘している通りだ。著者はさらに鋭く、人間の「自壊現象」を危惧している。現在の感染症のことと重ねあわせたとき、この一節は重く受け止めたい。
「自然の淘汰ということは体の鈍りと関係がある」。
 不眠に悩む我にはさらに厳しい一言があった。
「健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出し切って行動し、ぐっすり眠ることである」


『落語の聴き方 楽しみ方』(松本尚久 ちくまプリマ―新書)

 書名だけ見て表紙もあまり見ず手にしたからか、読み終わってからこう思った。「ほう、これでプリマ―新書ね」。
 俄か落語ファンでしかないが、結構学術的に思える内容が詰まっていた。能や人形浄瑠璃、歌舞伎、漫画や映画まで取り上げながら、落語を分析している一冊だ。
 冒頭の「悲劇」と「喜劇」の線引きの話から、「落語を聴いてなぜ笑うのか」という流れから、上方と江戸の落語の特徴と違い、さらには個別の落語を例にして「噺」の本質というところまで論を伸ばしている。印象としては、中高生というより大学や一般向けの講座としてふさわしい気がした。
「落語はつねに、自分を客観的に見ることを求めます」
…単に楽しむレベルでも、もちろんいいだろうが、この噺で「なぜ笑ったか」と一つ俯瞰できれば、また次の噺との出会いも少し深まる。聴き方が楽しみにつながる。

今年の漢字って…あっ今さら

2021年12月04日 | 雑記帳
 「今年の漢字」は明後日6日で締め切りのようである。図書館にも応募箱は置いているが、入れてくれる方は少ない。期限が近づいたので「何か1枚書いてくれませんか」と担当から声がかかった。いいよと軽く請け負ったが、さてさて、今年を表す漢字一字って…何かあるか、禍の現状もあまり変わらないしなあ。



 それでも、頭を絞ってみるのは老化防止に良いぞ!と自らを励まし「三枚書く」と宣言してみた。一枚目…「」。なんといっても谷翔平だろう。リーグでの活躍。偉なベーブルースと肩を並べた。まあ、「大」なら何でも当てはめることができそうだ。次の二枚目…「」。これも大谷だ。刀流が印象深いから。


 それだけでは駄目なので、某政党の○前幹事長の枚舌。というのはどうか。本県出身の前首相を陰から操っていた(失礼、支えていた)のは間違いないし、その人三脚が崩れた、ということで。あまりぱっとしない。では三枚目…「」。これはコロナ禍で、まだまだ帰省や遠出が叶わず、しい思いをした人が多くいた。


 さらに先日亡くなった瀬戸内聴氏が重なる。東京五輪が無観客でTVで見ている側もかなりしかったという本音もある。さて、家では正月に「今年の一字」を決めて書初めしているが、自分が書いた字を思い出せないでいる。写真を見直し「」だったかと…。ホモ・ルーデンスへの道遠し。いやまだ四週間ある。

干支一回りして「声を鍛える」

2021年12月03日 | 読書
 図書館のエントランス掲示の「詩文」に何を選ぼうかと書棚を見てまわったときに目に付いた本だった。ページをめくるとなかなか面白い。50年前に読みたかった。もっとも著者は同世代なので単に妄想だが…。先週読んでいた新書との共通点も見つかり、やはりと思うことがあった。以前の考えの浅さにも気づいた。


『15歳の日本語上達法』(金田一秀穂  講談社)


 「ぼくたちが使っている記号言語というのは、(略)言葉にならない唸り声のようなもの、言い換えれば、アナログな言語の上に乗っかったデジタルな言語ということ」という一節は、先日記した点と重なる。「アナログな気持ち」こそ何より大切という視点が弱まってきた、いや軽視してきた責任があったのではないか。


 2009年に着任した学校で掲げたスローガンは「声を鍛える」だった。「声」にはたくさんの意味がある。当然「音声言語」という表現を重視しつつ、「意見・考え」という、いわば「内言」も鍛えるという意味を重ねた。児童理解という観点も含ませ、校長室だよりとして「声日記」と名づけ職員向けに通信も継続した。



 その中で自分はどれほど「言葉にならないもの」に目を向けられたのか。児童の言葉や動きを拾い、そこから心を探るという意識はあった。しかし今振り返って、やはり不足していたのではないか。もっと「体験」や「沈黙」を重視する姿勢が欲しかった。有限な時間を言い訳に、可視化重視の波に呑まれた気がする。


 さて、本書の読者対象は書名通り中学生。そこへ向ける「日本語上達法」は三つのポイントが示され納得した。まず「外国語・外国」次に「古典」。つまり違う観点から今の日本語を見ること。いつの場合も、重視されるのは複眼だ。最後はいわば「見たこと作文」だ。気持ちから離れ「気持ちを伝える」力を養うのだ。


 もはや子どもたちの「声を鍛える」ことに直接関わる立場からは距離を感じるが、全く縁がなくなったわけではない。しかしきっとそれは自らの声を鍛える(衰えをなだらかにする程度だが)ことで保てるのだろう。外国語や古典に挑む勇気はないけれど、干支を一回り巻き戻し、あの頃唱えた決意を密かに呟きたい。

公孫樹の葉と師走へ向かう

2021年12月02日 | 雑記帳
11月28日(日)
 大相撲九州場所が終わった。今年一番の場所だったと思う。上位陣が順当に力を発揮したし、下位から這い上がってきた力士たちの個性ある活躍も面白かった。照ノ富士の「全て受け止める」発言もまさに横綱の面目躍如という気がした。千秋楽、力叶わず泣き顔を見せて花道を戻る大関貴景勝は、何を誓ったのか。


11月29日(月)
 朝一番で孫と散歩。立ち止まっては水溜まりでビチャビチャするのが好きで、気が済むまでやらせておく。それでも日に日に折り合いがつく(笑)ようにはなってきた。隣市の家電量販店で購入予定の機器を少し見て歩く。ちよっと手が出ない価格。やはり通販かあ…。コロナ変異株対策で外国人来日禁止が発表される。


11月30日(火)
 図書館だよりを仕上げイベントチラシと共に、町内のこども園へ届ける。途中、かつて勤めた学校の隣の中学校跡地に寄り、葉の少なくなった公孫樹の樹とその周辺を撮る。この場所は卒業アルバムの定番位置だったと懐かしむ。帰館後、明日の月初め玄関掲示に向けて準備をする。「絶対大丈夫」の語で締めくくりたい。







12月1日(水)
 午前中にエントランス掲示を完成させる。午後は町少年育成関係の原稿作成、イベント準備等進める。雪がちらつく中、帰宅。ネットで中村吉右衛門の訃報を知る。「鬼平」の印象も強いが、歌舞伎座で生の姿も何度か観た。あの懐の広そうな、凛とした佇まいは忘れられない。一度「播磨屋!」と掛けてみたかったなあ。


12月2日(木)
 天気予報は盛んに警戒を発していたが、思ったほどの荒れ具合ではない。今日は勤務日でなくまた孫たちも来ないので、ゆっくりと明日の某小PTAでの読み聞かせや明後日の育成大会挨拶の準備ができる。体中の様々な箇所の衰えは、声を発することも同様にある。意識的に使い続けないと、杵柄は握りにくくなる。