私は小説を読まない。うん。めったに読まない。
テレビのドラマは見てる癖にね(笑)。
さてっと、雑誌「新潮45」6月号が昨日出ておりました。
そこの特集「誕生100年・今こそ読みたい新田次郎」が
気になりました(新田次郎の小説は読んだことがない癖して)。
その特集は3人の方が書いておりました。
それを読んでいたら、
司馬遼太郎のエッセイが思い浮かんできます。
まあ、(小説を読まない)私の連想ですから、
気ままなものです。
司馬遼太郎が亡くなる前年のエッセイに
「本の話 ―― 新田次郎氏のことども」があります。
これは、「以下、無用のことながら」にも、
「司馬遼太郎が考えたこと 15」にも掲載されてます。
司馬さんのそれは、こうはじまっております。
「もう古い話で・・・・私が三十代だった昭和三十一、二年のころである。私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。その新聞社は、『大阪新聞』という夕刊紙もあわせて発行していた。その連載小説のお守りも、私の仕事の一つだった。・・・ただ一度だけ・・たまたま自分の案が通って、東京へ出張したことがある。なんだか晴れやかな気分だった。」
こうして、気象庁の課長さん藤原寛人(新田次郎)を尋ねて、連載小説をお願いする司馬さんなのですが、見事に断られるいきさつを書かれたエッセイなのでした。
「その後、二十余年、お会いする機会もないまま、亡くなられた。その間、私は読者でありつづけたから、べつにお会いする必要もなかった。」
こうして、エッセイは主題にふれていくのでした。
「去年のことである。枕頭で本を読んでいるうちに、飛びあがるほどおどろいた。著者である数学者が・・・ともかくも、上質な文章が吸盤のように当方の気分に付着してきて眠ることをわすれるうちに、この本の著者の藤原正彦氏が・・・とふとおもったのである。あわてて本の前後を繰るうちに、やはり新田次郎氏の息であることがわかった。・・・この偶会のよろこびは、世にながくいることの余禄の一つである。同時に、本のありがたさの一つでもある。・・・」
ここに、司馬さんは「上質な文章が吸盤のように当方の気分に付着してきて眠ることをわすれる・・」とあるのでした。当然のように、新田次郎の息の藤原正彦著『遥かなるケンブリッジ』を読んでいない私(笑)。ですから、それが、どのような文なのかも、気にもせずに、忘れておりました。
ということで、「新潮45」6月号なのですが、
そこに、藤原正彦氏の文がある。
そこを、引用。
「・・文章まで似ているとよく言われる。父は完成した小説をまず編集者に読んでもらい感想をもらってから二度目の推敲に入ったが、エッセイの方は私に第一読者の役を頼んでいた。長い年月、父のエッセイを精読しては批評するという仕事をしていたから、自然に文章の回し方やリズムが父に似てきたのだろう。処女作の『若き数学者のアメリカ』を読んだ数学者の友達に、『オヤジさんに書いてもらったんだろう。な、な、そうだろう、な』と言われた。『いや、自分で書いた』と口を尖らせたら、『もうそんなに頑張らなくてもいいから。そろそろ白状しちゃえよ』と言われた。」(p154)
うん。司馬さんが、連載をたのみにうかがった頃だろうなあ、その頃の様子を正彦氏は書いております。最後に、そこも。
「父の作家生活の前半は気象庁との二足のわらじで、目の回るような忙しさだった。どちらでも恥ずかしくない仕事をするため、余暇というものは皆無に等しかった。趣味やスポーツに費す時間もほとんど持ち得なかった。役所から帰宅すると、夕食後にくつろぐこともせず、直ちに書斎に向かった。どてら姿で書斎のある二階への階段を上りながら、『戦いだ、戦いだ』とつぶやいていた。風邪で三十八度の熱がある時でもそうした。そんな時、家族の者は押し黙ったままそれぞれの持場に散って行った。・・」(p154)
テレビのドラマは見てる癖にね(笑)。
さてっと、雑誌「新潮45」6月号が昨日出ておりました。
そこの特集「誕生100年・今こそ読みたい新田次郎」が
気になりました(新田次郎の小説は読んだことがない癖して)。
その特集は3人の方が書いておりました。
それを読んでいたら、
司馬遼太郎のエッセイが思い浮かんできます。
まあ、(小説を読まない)私の連想ですから、
気ままなものです。
司馬遼太郎が亡くなる前年のエッセイに
「本の話 ―― 新田次郎氏のことども」があります。
これは、「以下、無用のことながら」にも、
「司馬遼太郎が考えたこと 15」にも掲載されてます。
司馬さんのそれは、こうはじまっております。
「もう古い話で・・・・私が三十代だった昭和三十一、二年のころである。私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。その新聞社は、『大阪新聞』という夕刊紙もあわせて発行していた。その連載小説のお守りも、私の仕事の一つだった。・・・ただ一度だけ・・たまたま自分の案が通って、東京へ出張したことがある。なんだか晴れやかな気分だった。」
こうして、気象庁の課長さん藤原寛人(新田次郎)を尋ねて、連載小説をお願いする司馬さんなのですが、見事に断られるいきさつを書かれたエッセイなのでした。
「その後、二十余年、お会いする機会もないまま、亡くなられた。その間、私は読者でありつづけたから、べつにお会いする必要もなかった。」
こうして、エッセイは主題にふれていくのでした。
「去年のことである。枕頭で本を読んでいるうちに、飛びあがるほどおどろいた。著者である数学者が・・・ともかくも、上質な文章が吸盤のように当方の気分に付着してきて眠ることをわすれるうちに、この本の著者の藤原正彦氏が・・・とふとおもったのである。あわてて本の前後を繰るうちに、やはり新田次郎氏の息であることがわかった。・・・この偶会のよろこびは、世にながくいることの余禄の一つである。同時に、本のありがたさの一つでもある。・・・」
ここに、司馬さんは「上質な文章が吸盤のように当方の気分に付着してきて眠ることをわすれる・・」とあるのでした。当然のように、新田次郎の息の藤原正彦著『遥かなるケンブリッジ』を読んでいない私(笑)。ですから、それが、どのような文なのかも、気にもせずに、忘れておりました。
ということで、「新潮45」6月号なのですが、
そこに、藤原正彦氏の文がある。
そこを、引用。
「・・文章まで似ているとよく言われる。父は完成した小説をまず編集者に読んでもらい感想をもらってから二度目の推敲に入ったが、エッセイの方は私に第一読者の役を頼んでいた。長い年月、父のエッセイを精読しては批評するという仕事をしていたから、自然に文章の回し方やリズムが父に似てきたのだろう。処女作の『若き数学者のアメリカ』を読んだ数学者の友達に、『オヤジさんに書いてもらったんだろう。な、な、そうだろう、な』と言われた。『いや、自分で書いた』と口を尖らせたら、『もうそんなに頑張らなくてもいいから。そろそろ白状しちゃえよ』と言われた。」(p154)
うん。司馬さんが、連載をたのみにうかがった頃だろうなあ、その頃の様子を正彦氏は書いております。最後に、そこも。
「父の作家生活の前半は気象庁との二足のわらじで、目の回るような忙しさだった。どちらでも恥ずかしくない仕事をするため、余暇というものは皆無に等しかった。趣味やスポーツに費す時間もほとんど持ち得なかった。役所から帰宅すると、夕食後にくつろぐこともせず、直ちに書斎に向かった。どてら姿で書斎のある二階への階段を上りながら、『戦いだ、戦いだ』とつぶやいていた。風邪で三十八度の熱がある時でもそうした。そんな時、家族の者は押し黙ったままそれぞれの持場に散って行った。・・」(p154)