萩尾望都作品集「なのはな」(小学館)が出ておりました。
とりあえずも、その最初にある漫画をひらきました。
うん。まだ全部は読み終えておりません。
ということで、
思いつくままに、
大越健介著「ニュースキャスター」(文春新書)の第一章に
「後に、いわゆる民間事故調(福島原発事故独立検査委員会・北澤宏一委員長)は、官邸中枢の政治家やスタッフへの詳細な聞き込みをもとに、事故の検査結果をまとめた報告書を発表している。報告書では、事故発生からの数日間は、東京電力も官僚機構も混乱の中で十分な情報を持ち得ず、原子力には素人の限られた政治家たち(当時の菅直人総理大臣を含む)が、場当たり的に事故対応にあたらなければならなかった事実を公表した。この例をはじめとして、本来信頼されるべき政府発表が、実は根拠が極めて薄弱なものだったことが次々に明らかになるたびに、その時の報道を担ったひとりとして、何とも言いがたい気持ちになる。・・」(p19)
さて、萩尾望都作品集「なのはな」の最後には、萩尾さんご自身のあとがきが2ページ書かれておりました。そこから
「・・私は東京の隣の埼玉県に住んでいました。電源が喪失、炉心が出ていると報道されていました。12日から次々と建屋が爆発して行きました。ああメルトダウンだと思いましたが、政府も電力会社も、30キロ県内の避難や自宅待機を促しながら『大丈夫』と言っています。私は胸のザワザワが止まらず、といって誰に聞いていいか解らず、何も手がつかないままでした。・・」
こうして、この作品集が生まれる経緯を語っておられます。
もどって、あの時のことを、大越健介氏のコラムからピックアップしてみます。
「思えば、あの日以来、誰もが手探りで来たのだ。震災の被災者も、政府も、そしてわれわれ報道機関も。・・・・事故から数日間は、ほどんど神頼みに近い日々だったことがわかる。『まったく手ぶらで、何も(情報を)持たないで記者会見に臨んだ』という、その官房長官の発言に、われわれ報道機関も頼らざるを得なかった。ただちに健康に被害が出る状況ではないといいながら、後追いを繰り返した避難指示。放射性物質の広がりをある程度は予測できながら、公表が遅れた文部科学省のシステム・SPEEDI。あの時植えつけられた情報への不信・・・」(前書p226~227)
大越健介氏の新書から、もう一箇所、
ここも、この機会に引用しておきます。
「福島第一原発の事故を国際原子力事象評価尺度でチェルノブイリ並みのレベル七に引き上げると、原子力安全・保安院が発表した日のこと。菅直人総理大臣はちょうど震災から一ヶ月という節目で、記者会見を行った。当然、レベル七の引き上げをめぐって、国民の不安や懸念をどう払拭するかという質問が飛んだ。だが総理は、『専門家の判断だ。きょうだけの状況をとらえれば、一歩一歩前進している』とはなはだ要領を得ない、問いをはぐらかすかのような態度に終始していた。それについて僕は、番組の中で『放射能という見えない恐怖にさらされる人たちに、リスクへの心構えを含めた確かなメッセージを発することは大事な政治の役割です。情報発信の最高責任者が、このことに鈍感であっていいはずはありません』と発言したのだ。いま振り返ってみても、このコメントでよかったのだと思う。・・・・・『レベル七』という衝撃に、総理がまともに向き合おうとしていない。」(p129~130)
萩尾望都さんの作品集のはじまりに「なのはな」はありました。
そこには福島の少女が、霧の向こうでチェルノブイリの種を蒔く少女と出会っておりました。
とりあえずも、その最初にある漫画をひらきました。
うん。まだ全部は読み終えておりません。
ということで、
思いつくままに、
大越健介著「ニュースキャスター」(文春新書)の第一章に
「後に、いわゆる民間事故調(福島原発事故独立検査委員会・北澤宏一委員長)は、官邸中枢の政治家やスタッフへの詳細な聞き込みをもとに、事故の検査結果をまとめた報告書を発表している。報告書では、事故発生からの数日間は、東京電力も官僚機構も混乱の中で十分な情報を持ち得ず、原子力には素人の限られた政治家たち(当時の菅直人総理大臣を含む)が、場当たり的に事故対応にあたらなければならなかった事実を公表した。この例をはじめとして、本来信頼されるべき政府発表が、実は根拠が極めて薄弱なものだったことが次々に明らかになるたびに、その時の報道を担ったひとりとして、何とも言いがたい気持ちになる。・・」(p19)
さて、萩尾望都作品集「なのはな」の最後には、萩尾さんご自身のあとがきが2ページ書かれておりました。そこから
「・・私は東京の隣の埼玉県に住んでいました。電源が喪失、炉心が出ていると報道されていました。12日から次々と建屋が爆発して行きました。ああメルトダウンだと思いましたが、政府も電力会社も、30キロ県内の避難や自宅待機を促しながら『大丈夫』と言っています。私は胸のザワザワが止まらず、といって誰に聞いていいか解らず、何も手がつかないままでした。・・」
こうして、この作品集が生まれる経緯を語っておられます。
もどって、あの時のことを、大越健介氏のコラムからピックアップしてみます。
「思えば、あの日以来、誰もが手探りで来たのだ。震災の被災者も、政府も、そしてわれわれ報道機関も。・・・・事故から数日間は、ほどんど神頼みに近い日々だったことがわかる。『まったく手ぶらで、何も(情報を)持たないで記者会見に臨んだ』という、その官房長官の発言に、われわれ報道機関も頼らざるを得なかった。ただちに健康に被害が出る状況ではないといいながら、後追いを繰り返した避難指示。放射性物質の広がりをある程度は予測できながら、公表が遅れた文部科学省のシステム・SPEEDI。あの時植えつけられた情報への不信・・・」(前書p226~227)
大越健介氏の新書から、もう一箇所、
ここも、この機会に引用しておきます。
「福島第一原発の事故を国際原子力事象評価尺度でチェルノブイリ並みのレベル七に引き上げると、原子力安全・保安院が発表した日のこと。菅直人総理大臣はちょうど震災から一ヶ月という節目で、記者会見を行った。当然、レベル七の引き上げをめぐって、国民の不安や懸念をどう払拭するかという質問が飛んだ。だが総理は、『専門家の判断だ。きょうだけの状況をとらえれば、一歩一歩前進している』とはなはだ要領を得ない、問いをはぐらかすかのような態度に終始していた。それについて僕は、番組の中で『放射能という見えない恐怖にさらされる人たちに、リスクへの心構えを含めた確かなメッセージを発することは大事な政治の役割です。情報発信の最高責任者が、このことに鈍感であっていいはずはありません』と発言したのだ。いま振り返ってみても、このコメントでよかったのだと思う。・・・・・『レベル七』という衝撃に、総理がまともに向き合おうとしていない。」(p129~130)
萩尾望都さんの作品集のはじまりに「なのはな」はありました。
そこには福島の少女が、霧の向こうでチェルノブイリの種を蒔く少女と出会っておりました。