長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社)を
読み直し、あれこれと連想がひろがりました。その関連で
本棚からとりだしたのが、梅棹忠夫著「知的生産の技術」。
ひらいた箇所はというと、
『本は二どよむ』と『本は二重によむ』(p110~)でした。
ここには、『本は二重によむ』の箇所を引用。
梅棹さんはこう書いております。
「どれだけ普遍性があるかわからないけれど、
わたしとしては重大なことのようにおもうので、
かきしるすことにする。」(p111)
こうして、梅棹氏が、本に線をいれる箇所に
( この前文では、線をひくことを梅棹氏が書いています )
あきらかな二つの系列があることを述べるのでした。
その二系列というのは、どんなものか、
①『だいじなところ』は、著者のかんがえがはっきりあらわれる箇所。
②『おもしろいところ』は、『わたしにとって』のおもしろさである 。
はい。このあとは引用してゆきます。
「すると、わたしは本をよむのに、じつは二重の文脈でよんでいる
ことになる。ひとつは著者の構成した文脈によってであり、・・・
・・・・このことは、よくいわれるような、
『本は批判的によめ』ということとはちがうとおもう。
批判どころか、
第一の文脈においてはまったく追随して、ただ感心してよんでいるのである。
第二の文脈があらわれてくるというのは、わたしが、著者とはまったく別の、
『あらぬこと』をかんがえながらよんでいるということの証拠である。
触発や連想ということもある。それも、
著者にはおもいもよらぬところに飛火するものだ。
この第二の文脈のほうは、だから・・・シリメツレツなものといってよい。
とにかく著者の思想とは別のものなのである。
・・・・・わたしの場合をいうと・・
かきぬきやらをするのは全部第二の文脈においてなのである。・・・」
つぎには、こう書かれてゆくのでした。
「『わたしの文脈』のほうは、シリメツレツであって、
しかも、瞬間的なひらめきである。これは、すかさず
キャッチして、しっかり定着しておかなければならない。・・・
この種の着想・連想は、一種の電光みたなものであるから、
傍線だけでは、あとからみて、なぜ線をひいたのか、
そのとき何をかんがえたのか、わからなくなってしまうこともある・・
本の著者に対して、ややすまないような気もするが、
こういうやりかたは、いわば本をダシにして、
自分のかってなかんがえを開発し、そだててゆく
というやりかたである。・・・・
著者との関係でいえば、追随的読書あるいは批判的読書に対して、
これは創造的読書とよんではいけないだろうか。」(~p115)
え~と。この引用はまったく追随的読書なのでしょうが、
まるでこの個所を新しく発見したかのように読みました。
『あらぬこと』に創造的というラベルを貼られたような、
うれしい気分にさせてくれる一節を読めた気がしました。