和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

サザエさん東京物語。

2022-02-10 | 本棚並べ
三姉妹の三番目が長谷川洋子さん。
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(朝日出版社・2008年)が
出た時に買いました。もう内容はすっかり忘れてる。

昨年木材から作った本棚におさまっていた『サザエさんうちあけ話』
と並べて『サザエさんの東京物語』がありました。
はい。それで手にとりました。
ところどころ引用してゆきます。
戦中に福岡へ疎開している時のこと。

「博多の中心部が集中的に空爆されたとき、
  『女子は出社に及ばない』
とかねがね新聞社から通達があったにもかかわらず、姉は、
  『これが記者魂というものよ』
と張り切って西新町から天神まで歩いて出社した。

途中、黒焦げの遺体がいくつも、そこここに放置され、
線路は曲がり、電線はぶら下がり、焼け落ちた家々は
くすぶってまだ煙を上げていたと、
身振り手振りで話して聞かせる。

 『もう、やめてよ』
と言いながら、怖いもの見たさの心理で、
みんな耳をそばだてて聞き、話は一段と誇張されていった。

町子姉は話の面白い人で、そのなかに尾鰭(おひれ)やデマも入り、
また始まったと思いつつ家族は引き入れられて、大抵聞き手に回った。

それも家の中だけの話で、一旦外に出ると甚(はなは)だ無口で
ほとんど口を開かず、人見知りが強いのは相変わらずだった。」
 (p60)

この最後の二行が気になるところですが、
それはあとにして、家の中の町子さんはというと、

「町子姉は家の中では『お山の大将』で傍若無人、
声も主張も人一倍大きかった。
『一人で五人分くらい騒々しい』と、
まり子姉は時々、耳をふさぐようにして評していたくらいだ。

我が家の中だけが彼女にとって本当に居心地のいい世界だったから、
喜怒哀楽はすべて家族の中で発散していた。・・・」(p12)

本の最初の方に、東京へ出て来てからのことがあります。

「父は町子姉が女学校二年の春、亡くなった・・・

町子姉の幼い頃のことに関しては、学校から帰ると
カバンを放り出して夕方まで外を走り回っていた姿しか記憶にない
 ・・・・・・・
福岡から東京に移って環境が一変したとき、
感じやすい年頃でもあってのことだろう、
カルチャーショックは想像以上に大きかったようだ。
家庭の中が一番安心できる場所になった。

仕事を始めてからも人付き合いが苦手で、
出版社や新聞社の方達にも会わず、大抵まり子姉が交渉に当たっていた。
パーティーや会合にもほとんど出席しないので、
友人、知人も極端に少なかった。」(p10~11)

加藤芳郎氏が晩年の日本漫画家協会・文部大臣賞を
長谷川町子が受賞した際の場面を書いているのを
引用されております。

「町子さんはパーティー嫌いだから、ご本人の出席は
ほとんどの会員は期待していなかったのだが、当日、
パーッと花が咲いたように脚光を浴びて会場に現れた。
多くの出席者や漫画家達は『動く長谷川町子を初めてみた』
と、どよめいたのであった。」(p11)

はい『東京ショック』という箇所も印象深い(p35~39)
のですが、長くなるのでここまでにして

うん。最後に、ここは引用しておかなければという箇所。

「町子姉は、翌昭和21年4月から夕刊フクニチに連載を始めた。
愛読していた志賀直哉氏の『赤西蠣太(あかにしかきた)』に
登場する御殿女中が〈 小江(さざえ)〉という名前であったことと、

私達の住まいが海岸の側にあったことから、
姉は主人公の名前を『サザエさん』と決め、
家族の名も、すべて海にちなんだものから選んだ。

毎日、海岸に散歩に出ては砂浜に座って、
思いつく限りの名をいくつも砂の上に書いたり消したりしていた。

後に朝日新聞の全国版で読まれるようになるとは夢にも思わず、
ごく気楽に執筆を始めたのだった。  」(p62)


コメント (3)
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