和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

サザエさんの両親。

2022-02-15 | 本棚並べ
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」(2008年)。その
帯には、『町子姉は頭がよくて、悪ガキで、甘えん坊でした。』とあり、
小さく、『ワンマン母さんと串だんご三姉妹の昭和物語』とありました。

四コマ漫画でのお母さん『お舟』は、ひかえめに描かれていますが、
それでは、じっさいの長谷川町子さんの母親はどんな方だったのか、
それが、長谷川洋子さんの、この本を読めば出会えます。


筑紫女学園を出たばかりの姉(鞠子)とあるので、
てっきり福岡出身のご両親と思たのはあさはかで、

『父も母も鹿児島出身であった。』(p172)
『母の兄は鹿児島から上京し・・』(p35)

そして、『父は肺炎をこじらせて余病を併発し・・・
亡くなった。・・・・52歳の働き盛りで、仕事も順調だったし、
家も新築し、これからというときだった・・』(p30)

父親が亡くなり、一家揃って東京へ出るのですが、
また、戦争中の疎開で、福岡へともどってきます。

『そこには父が建てた家があり・・・
福岡は九州一の大都会だから決して安全な場所とはいえないし、
疎開先には適さないが、父の思い出が残る家に帰る嬉しさが
先にたって荷造りの手も捗(はかど)った。町子姉は
〈 マイ・スイート・ホーム 〉などと、口ずさんでいた。』(p55)

この福岡の地で、サザエさんは誕生します。

『・・姉は主人公の名前を〈 サザエさん 〉と決め、
家族の名も、すべて海にちなんだものから選んだ。
毎日、海岸に散歩に出ては砂浜に座って、
思いつく限りの名をいくつも砂の上に書いたり消したりしていた。
後に朝日新聞の全国版で読まれるようになるとは夢にも思わず、
ごく気楽に執筆を始めたのだった。』(p62)


疎開するまえ、東京へ出て来た際の暮らしぶりが
『サザエさんうちあけ話』のはじめの方にあります。
そこの波は平らかではなく、荒波として描かれます。

そのなかに、荒波に船出した長谷川一家の舟のカットがあります。
〇の中に長と印のある船「長谷川丸」が荒波にのまれているのに、
お母さんは聖書をひらき船の舳先で座って平然としている絵です。
その下に書かれている、長谷川町子さんの文があります。
はい。ここも引用しておかなきゃ。

「母は一切こういう思いわずらいを致しません。
神様日の丸だから安心しきっています。・・・
あんまり信用しているので、批判も疑問もあるけれど、
右にならえで、単細胞の親子は、陽気に、くったくなく
暮らしました。」
 ( 姉妹社はp15~16。朝日文庫ではp17~18 )

『くったくなく暮らしました』なんて、まるで昔話でも
読んでる気分になります。その後も続き引用してみます。

「夕食のあとなど、
おぜんのお茶わんについた米粒の干からびるにまかせ、
二時間でも三時間でも、芸術論、宗教論、服飾だんぎ。
くだって人のウワサへと発展します。
豆、食い食い人の悪口いうを、
荻生徂徠センセイも娯楽の一つにかぞえています。

また姉は、人まねが大変うまく、興(きょう)にのって
実演を始めると皆、笑いころげました。
生前父は良く、小学生の姉に
『こんどは、どこどこのおじさんの歩くマネをしてごらん。』
などとリクエストして手を打って喜んでいたものです。

・・・平和なある日、突然空の預金通帳を母に見せられました。
『さアこれですっかりなくなったよ、どうする?』
アパートの一、二軒は建つ位の貯えを持って上京したはずですから、
姉は手にした絵筆をバッタと落してノケゾリました。
その絵筆、ついに取り上げることなく今日に及びます。・・・」

(注:『サザエさんうちあけ話』なので登場する姉は、長女まり子さん )


はい。長谷川洋子著『サザエさんの東京物語』では、
この個所をとりあげられ、書かれていたかどうかというと、
出版をはじめる場面に、それを彷彿させる文がありました。

「出版を始めるに当たって、やはり名前が必要だということで、
『姉妹社』と名乗ることになった。

母の得意のお説教は毛利元就の『三本の矢』・・・・
三人が心を一つにして邁進すれば、社会に立ち向かうことが必ずできる、
と常にもまして熱弁をふるった。母がいう社会とは・・・
男社会の中で女性がいかに不利かということを身をもって実感した母らしく、
言葉のはしばしにそれが強調された。その影響で、
娘達には男性、即、敵という観念が培われたような気がする。

・・・・・妹が言うのも変だが、まり子姉の油絵は粗いタッチで
未熟ではあったが、将来を期待させるような精神的なものがあって
私は好きだった。それに副業にしていた挿絵も好評で、
雑誌の連載もいくつか依頼されていたのだ。
つまり順風に帆をあげた状態だった。
日頃、『喧嘩なら誰にも負けない』と豪語していたまり子姉が、
ここで唯々諾々(いいだくだく)と従ったのだから、
母親の威力は凄い。もっとも、陰で娘達は悪態をついていたが。」
        ( p66~67「サザエさんの東京物語」 )

はい。『クリスマスの戦い』(p110~)
も引用したくなるのですが、切りがない。

はい。母の『磯野お舟』ということで、
あと一か所だけ、引用させてください。

「聖公会で洗礼を受けてクリスチャンとなった母だが、
どこか物足りないところがあったらしく日曜に限らず
いろいろの集会を巡って歩いていた。
泊りがけで地方の講演会に行くことも度々だった。
姉妹社の経営についてはもはや、全くといっていい程、関心を失っていた。

自分の心の落ち着き所を求めて東奔西走し、
ついに無教会主義にたどりついて、その居場所を見つけた。
内村鑑三先生の提唱される無教会主義は、そのお弟子さん達に
受け継がれて各所で集会がもたれていたが、母が導かれたのは
自由が丘にある今井館だった。当時は矢内原忠雄先生が主宰し
ておられ、毎日曜に聖書講義があった。・・・
町子姉と私は母に叩き起こされて、二度に一度は母のお供をした。」
      ( p77~78「サザエさんの東京物語」 )



戦争で疎開し、福岡にもどりサザエさんは誕生します。
その漫画から、磯野浪平・お舟は、生まれたのでした。

あるいは、四コマ漫画の設定に磯野浪平・お舟が誕生したおかげで、
サザエさんの自由で奔放な活躍の場が生まれた。とも思えてきます。




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