柳田国男の俳諧を読みはじめると、芭蕉が登場するのですが、
柳田国男は、芭蕉を終着駅とはみなしていないことがわかります。
その例を二か所。
「 ただ何かといふと芭蕉に返れなどと呼号しながら、
芭蕉が企てて51歳までに、成し遂げずに終わったことを、
ちっとも考へて見ようとせぬのは不当であります。 」
( 病める俳人への手紙 )
「 俳諧はつまりその単調に堪え切れずして起ったのであるが、
芭蕉翁に到達しても、実はまだ完全にはこれを打破したとは
言えない。我々はむしろ非常に愉快なる革新傾向の、中途に
して停頓している姿を見るのである。 」
( 生活の俳諧 )
はい。単なる芭蕉読みではない、俳諧全体への
柳田国男のまなざしを、感じる箇所なのですが、
それはそうと、文を読んでわからない言葉には
辞書をひくように、ここは芭蕉をひらくことに。
芭蕉は、どの本を読んでよいのか分からないので、
まあいいや、柴田宵曲の『芭蕉』をひらいてみる。
気になったのは、芭蕉は51歳で亡くなっていること。
それを気にかけると、こんな箇所がありました。
「元禄7年(51歳)に3年ぶりで旅に出た芭蕉は、
東海道の諸所を経て故郷に帰った。それより京に上り、
近江に入り、7月に入って再び故郷に帰った。
この時には盆会を営む為であったらしく、
家はみな杖に白髪の墓参り
の句がある。この時芭蕉の老兄が猶健在であった・・・」
「 ・・・・・・・・・・
菊の香やならには古き佛達
菊の香やならはいく代の男ぶり
ぴいと啼尻聲悲しよるの鹿
元禄7年9月10日、亡くなる1月ちょっと前に、
江戸の杉風に与へた手紙の一節である。
・・・・・・・・
この手紙は大阪に著いた翌日のものらしいが、
大阪を一歩も踏出さぬうちに病みついて、
遂に不帰の客となろうとは、夢にも思はなかったであろう。
奈良の三句は最近の作を記したので、まだ未定稿だから
人には見せないでもらひたい、といふところに例の
一句も苟(いやしく)もせぬ芭蕉の性質が見える。・・・」
はい。あとは柴田宵曲さんの『芭蕉』の最後の方から引用
「 芭蕉の作品はその境涯から生まれたものである。
少くとも俳諧といふ文学を大成してからの芭蕉の面目は、
その作品によって窺ふことが出来る。
この点は芭蕉の愛読した杜甫の詩が、その一生を伝へて
ゐるのと趣を同じうしてゐる。芭蕉の一生は杜甫ほど
波瀾に富んでゐないけれども、数次の旅行によって
単調を補ひ得た観がある。
一見何でもないやうな句にまで、芭蕉その人の影が
にじみ出てゐる微妙な味に至っては、境涯の産物と
いふより外に適切な言葉を見出し得ない。
芭蕉の作品として
発句以外に多くの分量を占めてゐるものは連句である。
連句は共同作業であるだけに、芭蕉のみを切離して
考へることは困難であるが、芭蕉自身も
『発句は門人にも巧者あり、附合いは老吟の骨』
と云った位に、力を用ゐたことは云ふまでもない。
この方面に於ても、芭蕉は貞門、談林の徒の興り知らぬ
新な世界を開拓した。芭蕉の言葉として門人の伝へて
ゐるものの中に、連句の附合の問題が多いのを見れば、
古人の用意が那辺に在ったかを想察し得るだろう。
発句は芭蕉の世界の全部を窺ふに足るものではない。
・・・・・ 」