和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

海辺育ちの母に。

2022-03-07 | 本棚並べ
家から車で10分ほどのところに魚屋さんがあります。
そばに漁港。以前は5軒ほど魚屋さんがありました。
それが今は2軒。私が何となくちょくちょくゆくのは、
70代前半の御夫婦が営んでおります。
以前一時店をやめていたのですが、またはじめております。
近隣の漁港に上がる魚を、午前中に旦那さんが仕入れて、
午前11時半ごろから営業しています。
はい。鯵が中心で、サシミや開き。烏賊やイワシや、
鱚など、その時々に荷揚げしたものを並べてます。
ときどき、アラがあると言ってくれると買います。

はい。そういうわけで、私に魚屋さんは身近です。
さて、本棚から魚屋さんで思い浮かんだ本をだす。

曽野綾子著「この世に恋して」(WAC・2012年)。
そばにあった、もう一冊も取り出す。
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年)

ちなみに、今頃になって、ようやく気づいたのですが、
2冊目は、副題が「東日本大震災の個人的記録」でした。
1冊目は、副題が書き下ろし「曽野綾子自伝」とあります。
自伝を書く前年が、東日本大震災だったことになります。

うん。このくらいにして、1冊目に登場する魚屋さんの話。
いくつか引用してみます。

「母は福井の回漕(かいそう)問屋に生まれました。
私はこの母から、日本の田舎町の『魚文化』を習ったような気がします。
 ・・・・・
それも家でお料理しないんですよ。浜の通りに新鮮な鯖(さば)を
焼き物にしている店があって、それをご飯の前になると子どもが
買いにやらされるんだそうです。

こういう素朴な環境で育った母は、私に魚の鮮度の見分け方と
アラでも何でも全部使っておいしいおかずを作る方法を
子どものときから教えてくれました。ですから私は今でも
お客様にご馳走をするというとお魚料理しかできないんです。

・・・母の家は、最初は羽振りが良かったそうですけれど、
浮沈があり、小学校六年生のとき東京へ出て来ました。」(p25~26)

さてっと、つぎは、大学生時代の曽野綾子さん。

「その日、大学の帰りに、
いつも夕飯の魚を買っている駅で降りました。・・・・・

当時から私は背が高かったこともあるんでしょうか、
老けて見られていました。その頃は食料品を買うにしても
まだ闇市みたいな店が並んでいるところです。

雨が降ると足元が泥でぬかるような店でお魚を買ったり
していると、よく『奥さん』と言われました。

あんまり嬉しい話じゃないですけど、
何しろ私は海辺育ちの母にしっかり仕込まれていますから、
魚の名前も知っていますし、新しいか古いか、
安いか高いかも良くわかりますしね、とても
ハイティーンの娘には見えなかったんでしょう。」(p53~54)


はい。長谷川家のとなりの魚屋さんから、
私に思い浮かんだのは、この『奥さん』でした。

ちなみに、この本には新聞の切り抜きが挟んでありました。
「この世に恋して」を取り上げた『著者に聞きたい』という
インタビュー記事(磨井慎吾)でした。
その切り抜きに、曽野さんの言葉が『』してありました。

『今の世の中が幼いと思うのは、
すぐ善い人か悪い人かに分けたがるところ。
すべての人間はその中間だという認識がないと、
私は不安でしょうがない。
善くて悪い、悪くて善い人間を描く』

うん。『善い』と『悪い』との中間ですか。
それじゃ『意地悪』は中間でウロウロする?

はい。せっかく本を出して来たので、
『揺れる大地に立って』の前のほうをめくってれば、
『悪く』という文字が目にはいる。

「幸か不幸か地震と共に私は、たくさんの原稿を書くことになった。
私はいつも周囲の状況が悪くなった時に思い出される人間なのではないか、
と思うときがある。」(p27)

『比較的老年の人は』という箇所もありました。

「今度の地震でも、比較的老年の人はほとんど動揺を示さなかった。
多くの人は、幸福も長続きはしないが、悲しいだけの時間も、
また確実に過ぎて行く、と知っている。
どん底の絶望の中にも、常に微(かす)かな光を見たからこそ、
人は生き延びてきたのだという事実を体験しているのである。」(p20)

『老年』ですか。それじゃ若い曽野綾子さんはどうだったのか?
また、自伝のほうにもどって曽野さんの昭和20年のころをひらく。

「昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲は今も住む大田区で
経験しました。うちから三百メートルくらい離れた所にあった
ベーカリーが爆弾の直撃を受けて一家九人が全滅即死です。

明日の朝まで生きていられないかもしれないと思っただけで、
私は気が小さかったんでしょう。砲弾恐怖症にかかって
一週間ほど口がきけなくなりました。・・・・・

1945年3月9日から10日にかけて東京は大空襲に見舞われましたが、
その一晩だけで約10万人が焼死したんです。
私の知人にも家族を失った人がいますが、
そのどちらも遺体が発見されていないでしょう。・・・
黒こげの死体の中から個人を判別する国家的余力など
まったくなかったのです。」(p43~44)

ちなみに、曽野さんは1930年生まれ。
ちょうど、2011年と2012年の本が2冊。
コメント (2)
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