和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

柳田国男の三十何年来の愛読書。

2022-03-21 | 柳田国男を読む
依然俳諧はわからないながら、
俳諧を読みたいと思いますが、
ではどれから読めばよいのか。

柳田国男著「木綿以前の事」の自序に、
こうあるのが手がかりになりそうです。

「・・私がこの意外なる知識を掲げて、
 人を新たなる好奇心へ誘い込む計略も、
 白状すればまた俳諧からこれを学びました。

 七部集は三十何年来の私の愛読書であります。
 これを道案内に頼んでこの時代の俳諧の・・・・

 その折々の心覚えを書き留めておいたのを、
 近頃取出して並べてみますと、大部分は
 女性の問題であったことが、
 自分にも興味を感じられます。・・・・

 俳諧に残っているのは小さな人生かも知れませんが、
 とにかく今までは顧られなかったものでありました。
 ・・・・・・
 これからの日本に活きて行こうとする人々に、
 おふるでないものをさし上げたいと、
 私だけは思っているのであります。

           昭和14年4月         」

はい。方角を指し示してくれていました。
柳田国男を読みながら、芭蕉の七部集も。


それはそれとして、俳句と俳諧の相違が気になる。
俳諧を読み始める前に、『俳句と俳諧』について、
今思い浮かぶことを書き留めておくのもありかな。

私が今、思い浮かべるイメージは、
『俳句』というのは、本でいえば題名。
『俳諧』というのは、本でいえが本文。

題名がそのままに俳句だとすならば、その
題名に『芸術』という言葉を使うとすると、
柳田国男と、桑原武夫ならどう工夫するか?

柳田国男の『不幸なる芸術』は、昭和2年に掲載されました。
単行本になったときは、その題の文に他の文がくわわります。

 不幸なる芸術 昭和2年9月
 ウソと子供  昭和3年8月
 ウソと文学との関係 昭和7年4月
 たくらた考  昭和15年1月
 馬鹿考異説  昭和16年2月
 鳴滸の文学  昭和22年4月
 涕泣史談   昭和16年6月

以上の文をまとめて単行本『不幸なる芸術』となっておりました。
『芸術』という言葉と、『不幸なる』という言葉とのドッキング。

次いきます。
桑原武夫は、1946(昭和21)年に『第二芸術』を雑誌発表(11月号)。
こちらは、『芸術』という言葉と、『第二』という言葉のドッキング。

ドッキングといえば、桑原武夫著「文章作法」にこうあります。

「物を書くときに、事実だけ積み重ねたらかけるというのは科学の立場です。
 しかし、文章を書くという作業は、事実を並べるが、事実と事実との間は
 自分の責任でつなぐということです。」(p70)

はい。題名にも、俳句的なドッキング処理がお二人にはありました。
よい機会なので、『文章作法』から、こちらも引用しておきます。

「できるだけ字づかいは平凡にする。平凡だと思わせておいて、
 ピリッとした思想、着眼があるということが現代のすぐれた
 文章ということになるわけです。」(p36)

こう指摘したあとに、桑原さんは、中国の杜甫の作詩の心得を
引用して杜甫の覚悟をつたえるようにして語っておりました。

「自分は詩を書いている。その詩の一つ一つが人を驚かし、
 ハッとさせるようでなければいけないという覚悟です。」(p37)

戦後すぐに書かれたこの『第二芸術』は、
俳句界に波紋をなげかけたといわれています。


第二芸術の本文から引用をすることにします。
こんな箇所がありました。

「そもそも俳句が、付合いの発句であることをやめて
 独立したところに、ジャンルとしての無理があったのであろうが・・」

本の題名だけが独立して、本文がないような無理さ加減?

これは、戦後すぐに掲載された文なので、こんな箇所もあります。

「たとえば戦争中の・・・文学報国会ができたとき、
 俳句部会のみ異常に入会申込みが多く、本部は
 この部会にかぎって入会を強力に制限したことを
 私は思い出す。」


さてっと、ここらあたりが桑原氏が指摘したかった箇所
かもしれないと以下を引用してみます。

「しかも俳諧たる以上、俗化は防がねばならぬ。
 芭蕉は西行、杜甫など古典的伝統的文芸をそれに用いた。  
 ・・・・
 正しく理解しているにせよ、いないにせよ、世人の憧れは
 西洋近代芸術にある。その精神を句に取入れるということは、
 一つの賢明な道であるように見える。

 しかし、それは決して成功しない。
 西行、杜甫は時代をへだてていても、
 芭蕉とひとしく上にのびる花ではなく、
 地に咲く花であったのに対し、

 西洋近代芸術は大地に根はあっても
 理想の空高く花咲こうとする巨樹である。

 ともに美しい花とはいえ、草と木の区別は
 いかんともしがたい。もしもそれが俳句の
 うちに正しく移植されたならば、
 この植木鉢は破れざるを得まい。
 今日まだ破れないでいるのは、さし芽だからである。・・・」


「俳句と俳諧」を私は「題名と本文」の違いとイメージしました。
では、これから、歯が立たなくとも、身近に七部集を置くことに。
コメント (4)
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