柳田国男著「木綿以前の事」の、目次の中に「生活の俳諧」がある。
「生活の俳諧」の中に『私の講演の主たる目的は』とある。
うん。講演ならばと思って、お気楽に読み出しました。
といっても、内容は豊富。はじまりには、こんな箇所。
「私は熱心においては何人にも譲らざる
俳諧の研究者、ことに芭蕉翁の、今の言葉でいうファンであるが、
自分ではこれまで俳句なんかやってみようとしたことがない。
多分できないからだろうと思うが、
事実また作ってみようともしなかったので、
一言でいうならば発句(ほっく)はきらいである。
むしろ発句の極度なる流行が、かえって俳諧の真の味を
埋没させているのではないかを、疑いかつ憂いつつある一人なのである。」
はい。こんな調子で、この文を引用してゆきます。
「俳句という言葉は、明治以来の新語かと思われる。
日本では第一高等学校を一高という類の略語が通用しているから、
『俳諧の連歌の発句』を略して俳句というのも気が利いている。
しかしそのためにわが芭蕉翁の生涯を捧げた俳諧が、一段と
不可解なものになろうとしていることだけは争われない。 」
こうして、柳田国男は、俳句と俳諧の違いを味わってゆきます。
「たとえば俳諧の主題としては、俗事俗情に重きを置くことが、
初期以来の暗黙の約束であるが、これがかなり忠実に守られ
ていたお蔭に、単なる民衆生活の描写としても、彼の文芸は
なお我々を感謝せしめるのである。・・・
しからばどの点が芭蕉の出色であったかと申せば、
一言でいうと俳諧をその本然の用途、笑いに対する
我々の要望に応ずるようにしたことであろうと思う。 」
こうして、『笑い』ということで、俳句と俳諧との違いを
明瞭に説いて聞かせます。
「発句からまず人を笑わせようとするような
連俳というものも一つだってないのである。
これはいかなる突拍子もない話し家でも、高座に上った
早々からおかしいことをいう者がないと同じで、
むしろ最初はさりげなく、やがて高調して来る滑稽を、
予想せしめただけでよいのであった。
だから発句ばかりを引離して見れば、いずれも生真面目で
格別笑いたくもないのが当り前で・・・・
今日のいわゆる俳句は、それだけでは
俳諧でないということになるのである。 」
このあとに、『七部集』をとりあげてゆきます。
『七部集は私がことに愛読しているので‥』とあります。
このあとに、『笑い』を扱っているのですが
『この議論をあまり詳しくすると、退屈せられる人があっても困るから』
とあるので、私なりに端折ります。
俳諧師の学問という箇所がありました。
その旅行法が印象深い。
「俳諧師の学問というものは・・・・
旅行は近世人もよくしているけれども、
この人たちの旅行法はよほど行脚(あんぎゃ)僧に近く、
日限も旅程もいたって悠長で、かつかなりの困苦に堪え、
素朴な生活に親しんでいたらしいのである。
そういう類似の経験をもつ者だけが、相交わって
互に心理を理解し共鳴した上に、時として
詩の興味は昂揚し、感覚が尖鋭化していたのである。」
あとは、具体的な俳諧の引用をしてゆくのですが、
ここに、一か所だけ引用しておくことに
「 泥打ちかはす早乙女のざれ 芭蕉
田植の日は娘たちまでが昂奮して、よく路を行く人に
泥苗などを投げる悪戯(いたずら)をした。それを
御祝儀とも苗祝とも名づけて、慣例にしていた土地も
遠国にはあるが、芭門の人たちの熟知した京江戸中間
の田舎には、近世はもうあまり聞かなかったのである。
これもこの一句によって元禄にはあったことがわかって来る。」
うん。最後に引用しておきたいのは、
柳田国男氏の、その心構えでした。
「自分などの俳諧の味わい方は、
何か面白そうでまだはっきりと趣旨の呑み込めぬ句は、
折々思い出して口ずさんでいるのである。
そうしているうちにはふいと思い当ることがある。
それがまた一方には文化史のいろいろの方面を考察する際に、
役に立つことも何度かある・・・・」
はい。あとは柳田国男が芭蕉の俳諧から
『ふいと思い当る』ことの考察を拾って
私なりに読んでいけばよいのだなと思う。