敗戦の翌年の
1946年(昭和21)11月に、桑原武夫の『第二芸術』。
1947年(昭和22)12月に、柳田国男の『病める俳人への手紙』。
『病める俳人への手紙』(以下に略して『手紙』)のはじまりは、
『 人を楽しませるものが芸術だといふことを、
思ひ出さずには居られない時世になりました。
・・・時のはずみとは言ひながら、その芸術さへ
闘諍(とうじょう)の種、恨みと憎しみの目標
にしなければならぬといふことは、何としても
忍び難いことであります。 』
そのあとに『芸術を楽しむのに二つの道があって・・』とあり、
『・・・ 時の順序を目安に取るならば、
作者が自ら楽しむ芸術が兄なのであります。 』
『手紙』には、こんな箇所もありました。
『 翁(芭蕉)にも現代風な野心といふものがあったろうか
といふあなたの疑問は、疑問にするねうちも無いやうです。
人には生きて居れば必ず願ひはありますが、
翁の願ひはそれが成就するならば、俳諧が
もっと楽しいものになるやうな願ひでありました。 』
うん。ここを引用していると、そういえば柳田国男に
『笑の本願』と題する文があったと、思い浮かびます。
締めくくりなら、ここかなあ。
『 俳諧を復興しようとするならば、
先づ作者を楽しましめ、次には
是を傍観する我々に、楽しい同情を
抱かしめるやうにしなければなりません。
・・・すぐれた文学を世に留めることが、
俳諧の目的であったやうに解するのが、
病の原(もと)であったかと思ひます・・・ 』
はい。『芸術』という言葉がある、この箇所も引用。
『 連歌は始めから、
仲間以外の者には退屈なものと相場がきまって居りました。
それがどうして又当事者ばかりには、あの様に身を忘れるほど
楽しかったのかといふことが、寧ろこの芸術の深秘であります。
・・・・とにかくに中途に誰かが才能を閃かせて、
更に一段とをかしいことを言ひ出して、笑はせてくれる
だろうといふ予期のもとに、一同が句を附け続けて行かう
とする所に、楽しみがあったのであります。
・・・・私どもから見ますれば、
俳諧に一貫性を欠くといふことの発見ほど、
わかり切った平凡な発見は他にありません。
変化が目的で寄り集まった催しであるからには、
もし統一して居たら寧ろ興ざめであります。
やり句が絶対に必要であったといふ以上に、
時々はヘマや附けそこなひのある方が、
却って全巻の楽しみを深くして居たのです。・・・」
はい。はじめて読むことばかりなので、
つい、引用が長くなりました。これくらいにします。