筑摩書房の現代日本文学大系20『柳田國男集』。
そのはじまりは、『病める俳人への手紙』(昭和22年12月)でした。
その1ページ目の下段に『桑原君で無くとも』と、姓が出てくる。
うん。これは桑原武夫なのだろうなあ。と思う。
ここから、桑原武夫へ舵をきると、いけません。
ことわざの『二兎追う者は、一兎をも得ず』がチラつく。
はい。私の今までの読書は、いつもこんな感じで、
どっちつかずで『一兎も得ず』の読書をしておりました。
はい。やっとそのことに気づく、そんな年齢になります。
待てよ。情報化社会というのは、二兎も三兎も追うことは
日常茶飯事となっているのかもしれないと改めて思います。
その情報化社会とやらの影に、踊らされていた自分がいる。
さいわい、本棚をみると『二度あることは三度ある』で
ここで挫折したという『一兎も得ず』の形跡をたどれる。
『一兎も得ず』が並ぶ未読本は、ダメさ加減の記念碑。
本棚には、気分屋の姿が、一目瞭然。
と、そんなことを思いながら、本棚から
桑原武夫著「文章作法」(潮出版社・昭和55年)をとりだしてくる。
はい。今回はこの本です。
この本は、受講者15人に制限して、毎回作文を提出してもらって
添削、講評した際の、その記録なのでした。
うん。この『添削』『講評』がおもしろい。
この機会にあらためて、パラパラ拾い読み。
まずは、受講生にこう語っております。
「文章を書くということはひとりごと、つぶやき、
あるいは叫びではない。それは独語ではなく、
相手のある言葉、すなわち対話です。
・・・・
つまり、メッセージであって、思うこと、
知っていること、考えたことを伝えることです。」(p20)
「一つの文章を書くということはたいへん大事なことであって、
それがもし書かれなかったならば、この世に見過ごされ、
気づかれずにおわったことが生じる、というふうでなければならない。
・・・・・
そしてその文章を書いた人にとっては、書かない前よりか、
書いたあとのほうが真実に近づいているようなもの、
それがいい文章だというわけです。」(p29)
はい。これが導入部に語られておりまして。
講評しながら細部へとおりてゆきます。
ゴチャゴチャと我流で書きなぐる場合、
何度でも取り出してひらきたくなる本。
さてっと、ちゃんと柳田国男へ、もどれるかどうか?