大村はまの講演「教えるということ」に
「・・・そんなことよりも、書けない子どもがたくさんいて、先生が来て
何かしてくれるのを無意識に、しかし、心から待っているのです。 」
( ちくま文庫・p52 )
「 でも、子どもは『 文章は自分で書くもんだ 』と心得ていますから、
教師がかりに来てくれなくても、うらみはしません。それどころか、
書けない自分が悪いと思っているでしょう。かわいそうです。
『 書くこと 』を頭に浮かべさせられないような
教師だということを、子どもはうらむことを知りません。
けれども、教師の方は知っていないければ困ると思います。
書かせられないのは教師の恥なのです。・・・・
あるいは事前指導をしなかったという場合もあるでしょうが、
たとえ事前指導をしたとしても、『 書け 』と言って
書けない子がいるというのは、・・・・・
教室でその失敗のあと始末をしなくてよいのでしょうか。
子どもはいろいろなことを習っていくのですから、
途中で教えなければ書けません。
それなのに、書く時は黙って書かせてしまって、
それから集めて『 これは下手だ、これは上手だ 』と言う。
・・・指導者ではなくて批評家です・・・・
私たちは、批評家ではないのです。
・・・批評家の前に指導者なのです。・・・
自分が、こういうふうに指導して、こういうように書かせたところが、
これだけのものになってできてきた。では、この次はどんな指導を
しなければならないかということは、指導者である自分が一番よく
わかるはずです。・・・・ 」( p52~53 )
はい。講演なので、読んだ時はピンとこなかったのですが、
読み返していたら、今回この箇所が印象深い。はい。ここが私が
「大村はま国語教室」に学ぼうとしたキッカケの箇所かもしれません。
大村はまさんに、西尾実氏の本の解説をしている箇所がありました。
そこをパラパラとひらいていると、それはどうやら単元学習のこと
らしいのですが、私にはよくわからない。わからないながら、
気になる箇所がありました。
「 この収集は1年生の秋から始めた。このとき、
目的をはっきりさせ、資料の捜し方、
手順を考え、カードのとり方の実習をした。
その後2年間、ときどき、資料の交換を、口頭発表で、掲示で、
あるいはプリントで実施しながら続けた。
この間、この作業のもう一つのねらい、
一対一の対話の機会がたびたび得られた。
生徒から話してくる、教師から話しかける、
資料が発見されたにつけ、されないにつけ・・・・ 」
( p472~473 「西尾実国語教室全集」第7巻(教育出版) )
ああそうか。この時点で私は、大村はま先生の国語の授業は、
1年から3年までつづく学習だったのだと、やっと気づきます。
うん。それならと、中学3年生の時の苅谷夏子さん。
その感想を引用して今回は終わることに。
「これも私にとって一つの転換点となった単元だ。
中学校三年生のときのものだ。・・・
その年、日本経済新聞で長年連載が続いていた。
( そして今も続いている)『私の履歴書』の
単行本刊行が数十冊に達した。
先生はそのことを紹介し、履歴書、自叙伝、半生記など
ということばについて少し話したあと、では自分の履歴書、
つまりこれまでの自分について語る文章をまとめてみよう、
ということになった・・・
さっそく私たちは鉛筆を握り、それぞれに構成案をたてはじめた。
まずは、とにかくトピックを書き出していく。・・・・
簡単なはずだった。ところがいざ始めてみると予想外に筆が進まないのだ。
・・・・
一時間の授業が終わろうとする少し前、
しんとした教室の空気を先生の声が破った。
『 はい、そこまででやめましょう。今考えた文章は、
書きたかったら書いてみればいいでしょうが、
書かなくてもかまいません。
構成を考えたメモだけは、
しっかり学習記録に入れておきなさい。
さて、どうでしたか、『私の履歴書』を書こうとするとき、
できごとを一から十まですべて、あったとおりに、
そのままに書くわけではなさそうでしょう。
書いてある内容そのものが、
その人をすっかり表現しているわけでない。
選んだことを選んだ表現で書く、
実際にあったことでも、書かないこともある。
そこにこそ、その人らしさが出てくるんじゃありませんか・・・』
私はそのあたりでもう先生の声を聞かなくなっていた。
ひとつの真実がすとーんと腹に収まった、それを感じて
私はじっと固まったように思う。・・・・・・・・・
この鮮やかな導入の手際を、私は忘れたことがない。
文章を読むときには、作者の意図を考えながら、とか、
行間の意味を探りながら、というような注意は
ごくあたりまえのものだ。それを知らないわけではないが、
そう言われたからといって、なんの助けにもならなかった。
あの一瞬まで、私は、いわば観客席に座って
できあがった映画をおとなしく見る幼児と同じであって、
一方的な受容者だった。
まあ、受容する楽しみもあるのだが、
それでは創造の世界にほんとうに迫ることはできない。
でも、あの一瞬の転換で、『私の創造』が『他者の創造』と重なった。」
( p51~52 「教えることの復権」ちくま新書 )