和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

5行ほど読み、ひと息いれて。

2023-02-05 | 本棚並べ
大村はま先生の講演「教えるということ」の中に、
自分とおぼしき子どもをみつけるのでした。

「・・そして、読むことの学習では、
 『 読むこと 』がいちばん大事なのです。

 しかも最初の『 読み 』をみていなかったら、
 あとをどうして教えるのですか。

 だれが早いか遅いか、だれの目が一行飛ばすか、
 こういうことを知らなくていいのですか。
 それをよく知らないでいて、どうやって教えるつもりなんでしょう。

 子どものなかには、どうかすると
 5行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。
 5行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、
 また少し読む。

 こんな集中力のない子どもがだれとだれなのか
 おわかりですか。

 一字一字見ている子どもと、
 ひとまとまりのことばをちゃんと
 とらえるように成長してきた子ども、
 それはいつごろからかご存じですか。・・・・  」
        ( p39 ちくま学芸文庫「新編教えるということ」 )

はい。ここは小学生について語られているのでした。

 『・・どうかすると5行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。
  5行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、また少し読む。・・』

はい。これは私。今でも5行読んで放り投げてしまう癖があります。
はい。そのまま、この年まで馬齢を重ねてしまった。

という話はいつもしている気がするので、場面転換。

梅棹忠夫氏の、中学生の頃はどうだったのか?

「 わたしは、中学生のころから、山へいっていた。
  
  登山家のあいだでは、『 記録をとる 』
  という習慣が、むかしからあるようだ。

  行程と所要時間、できごとなど、行動の記録を、
  こくめいに手帳にかきこんでゆくのである。

  ルックサックをおろして、ひとやすみ、というようなときに、
  わずかな時間を利用してかくのだが、

  つかれているときには、これはなかなかつらいことである。
  わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。 」

          ( p171 「知的生産の技術」岩波新書 )


ここに、
『登山家のあいだでは、【記録をとる】という習慣が、むかしからあるようだ。』
とあります。

ちょうど、この前「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館)
というカタログを本棚からだしてきていて、パラパラめくっていると、
「同時代人からみた梅棹忠夫」のなかに、「新しい道を照らす人」と題して
鶴見俊輔氏が書いておりました(p16~17)。

そこにちょうど、それとおぼしき登山家が語られております。
その文は、こうはじまっておりました。

「『屋久島から帰ってきたおもしろい学生がいる。話をきいてみないか』。
  と、桑原武夫が言った。・・1949年・・のことだ。 」

このカタログには、最後に年譜があるので
梅棹忠夫の昭和24年(1949年)29歳を見ると

 9月9日 京都府山岳連盟の屋久島踏査隊に参加。
     隊長今西錦司、隊員西岡一雄と梅棹忠夫。
     屋久島から種子島の西之表港をへて
     屋久島の安房港に到着。宮之浦岳に登頂。   
     下屋久村の・・・・一周する。10月上旬帰洛。

はい。その屋久島帰りの梅棹忠夫と鶴見俊輔の初対面から
話しがはじまっているのですが、ここでは登山家・今西錦司が
出てくる箇所を引用することに。

「私が〇〇についてすぐ、桑原さんは、私の隣の部屋におり、
 たずねてきては、あれこれ話すなかで、

 『 自分は、中学校からの同級生だった今西錦司を天才と思っている・・

   《・・有名でもないし・・・とにかく、彼が近ごろ書いた
      野生の馬についての研究論文を見てくれ 》と言った。

   中学校で、今西は成績が悪くて、一学年上だったのが落第して
   桑原と同級になったというのだから、その後十数年にわたって、
   今西の力を信じる桑原武夫という人におどろいた。

   その根拠は、彼が中学生のころから、
   登山の指導者として遭難者を出したことがないという点にあった。

   天候を読み、地形を読み、途中にまずいと思ったら、
   仲間をなぐってでも引き返す、その実行力にあった。

   その今西錦司の学問を受けつぐ者が梅棹忠夫だという話だった。 
   ・・・梅棹のような考えの組み立てをする人に、
   私はそれまで会ったことがなかった。・・・    」( p16 )

もどって『知的生産の技術』の引用箇所から、もう一度この箇所

【 わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。 】

とありました。うん。そういう中学生からの『しつけ』を知らないで過ごした
私が、『知的生産の技術』を読むと、何か肝心な事を見逃している気がします。

つねづねそう思っておりました。『大村はまの国語教室』なら、
いまからでも、通えるかも。と思えたんです。
『 5行ほど読むとひと息いれて 』いる私にも読み続けられるかも。
そのように思わせてくれる安心感が、大村はま先生にはあるのでした。



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東京と大阪。東京と京都。

2023-02-05 | 地域
はい。杉山平一の詩を読み返していると、
以前は、気がつかなかった詩があったり。
うん。2つの詩を引用してみます。


     美しい大阪    杉山平一

  東京タワーの野暮をきらって
  通天閣と名付ける大阪が好きだ

  桜の宮 桜橋 桜川
  桃谷 梅田 梅ケ枝町に花をかかげ
 
  森の宮 南森町 森小路 諏訪の森
  天神の森にわけ入り
  萩の茶屋 天下茶屋に憩う

  玉造 玉手 玉川町 玉屋町の宝石に
  鶴橋 銀橋 汐見橋 水晶橋に清らな水をねがう

  惜しくも空心町 紅梅町 絹笠町を失くしたが
  なお 夕陽丘 東雲(しののめ)町に空を仰ぐ
  そんな大阪が 好きだ


忘れてたのですが、詩集に、新聞の切抜きをはさんであった。
読売新聞夕刊(2012年7月14日)「追悼抄」。
晩年の杉山氏の椅子に座っている写真があり、
5月19日、肺炎で死去、97歳。とあります。
はい。「追悼抄」からもうすこし引用。

「福島県会津若松市で生まれ、神戸、大阪で育った。
 松江で過ごした旧制高校時代・・・・

 戦後、工場経営の傍ら詩や映画評論を発表したが、
 『四季』の一員だった経歴が災いする。・・・・
 平明な言葉で詠(うた)う詩は評価されなかった。・・・

 『 世界は言葉によって発見される 』が口癖だった。
 散歩で見た光景、新聞の記事、仄聞(そくぶん)した世間話・・。

 何でも題材にした。一編一編が短く、
 東日本大震災が起きた昨春、出版準備をしていたのは、
 ようやく9冊目の詩集だった。・・・・(大阪文化・生活部 浪川知子) 」


      秘密     杉山平一

  東京で好かれる人の
  ベストワンは
  『 竹を割ったような人 』だそうだ

  京都でいちばん嫌われる
  ワーストワンは
  『 竹を割ったような人 』であるらしい

  秘密も嘘も皆無の
  ガランドウで 軽く貧相な人は
  わたしも きらいだ

  秘密も嘘もたっぷり持った人は
  なんだか豊かで
  どっしり 重い

  秘密を七つしか持たず
  嘘もへたな
  貧相な おれだ


はい。杉山平一の詩を2篇。引用しました。
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