大村はま先生の講演「教えるということ」の中に、
自分とおぼしき子どもをみつけるのでした。
「・・そして、読むことの学習では、
『 読むこと 』がいちばん大事なのです。
しかも最初の『 読み 』をみていなかったら、
あとをどうして教えるのですか。
だれが早いか遅いか、だれの目が一行飛ばすか、
こういうことを知らなくていいのですか。
それをよく知らないでいて、どうやって教えるつもりなんでしょう。
子どものなかには、どうかすると
5行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。
5行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、
また少し読む。
こんな集中力のない子どもがだれとだれなのか
おわかりですか。
一字一字見ている子どもと、
ひとまとまりのことばをちゃんと
とらえるように成長してきた子ども、
それはいつごろからかご存じですか。・・・・ 」
( p39 ちくま学芸文庫「新編教えるということ」 )
はい。ここは小学生について語られているのでした。
『・・どうかすると5行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。
5行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、また少し読む。・・』
はい。これは私。今でも5行読んで放り投げてしまう癖があります。
はい。そのまま、この年まで馬齢を重ねてしまった。
という話はいつもしている気がするので、場面転換。
梅棹忠夫氏の、中学生の頃はどうだったのか?
「 わたしは、中学生のころから、山へいっていた。
登山家のあいだでは、『 記録をとる 』
という習慣が、むかしからあるようだ。
行程と所要時間、できごとなど、行動の記録を、
こくめいに手帳にかきこんでゆくのである。
ルックサックをおろして、ひとやすみ、というようなときに、
わずかな時間を利用してかくのだが、
つかれているときには、これはなかなかつらいことである。
わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。 」
( p171 「知的生産の技術」岩波新書 )
ここに、
『登山家のあいだでは、【記録をとる】という習慣が、むかしからあるようだ。』
とあります。
ちょうど、この前「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館)
というカタログを本棚からだしてきていて、パラパラめくっていると、
「同時代人からみた梅棹忠夫」のなかに、「新しい道を照らす人」と題して
鶴見俊輔氏が書いておりました(p16~17)。
そこにちょうど、それとおぼしき登山家が語られております。
その文は、こうはじまっておりました。
「『屋久島から帰ってきたおもしろい学生がいる。話をきいてみないか』。
と、桑原武夫が言った。・・1949年・・のことだ。 」
このカタログには、最後に年譜があるので
梅棹忠夫の昭和24年(1949年)29歳を見ると
9月9日 京都府山岳連盟の屋久島踏査隊に参加。
隊長今西錦司、隊員西岡一雄と梅棹忠夫。
屋久島から種子島の西之表港をへて
屋久島の安房港に到着。宮之浦岳に登頂。
下屋久村の・・・・一周する。10月上旬帰洛。
はい。その屋久島帰りの梅棹忠夫と鶴見俊輔の初対面から
話しがはじまっているのですが、ここでは登山家・今西錦司が
出てくる箇所を引用することに。
「私が〇〇についてすぐ、桑原さんは、私の隣の部屋におり、
たずねてきては、あれこれ話すなかで、
『 自分は、中学校からの同級生だった今西錦司を天才と思っている・・
《・・有名でもないし・・・とにかく、彼が近ごろ書いた
野生の馬についての研究論文を見てくれ 》と言った。
中学校で、今西は成績が悪くて、一学年上だったのが落第して
桑原と同級になったというのだから、その後十数年にわたって、
今西の力を信じる桑原武夫という人におどろいた。
その根拠は、彼が中学生のころから、
登山の指導者として遭難者を出したことがないという点にあった。
天候を読み、地形を読み、途中にまずいと思ったら、
仲間をなぐってでも引き返す、その実行力にあった。
その今西錦司の学問を受けつぐ者が梅棹忠夫だという話だった。
・・・梅棹のような考えの組み立てをする人に、
私はそれまで会ったことがなかった。・・・ 」( p16 )
もどって『知的生産の技術』の引用箇所から、もう一度この箇所
【 わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。 】
とありました。うん。そういう中学生からの『しつけ』を知らないで過ごした
私が、『知的生産の技術』を読むと、何か肝心な事を見逃している気がします。
つねづねそう思っておりました。『大村はまの国語教室』なら、
いまからでも、通えるかも。と思えたんです。
『 5行ほど読むとひと息いれて 』いる私にも読み続けられるかも。
そのように思わせてくれる安心感が、大村はま先生にはあるのでした。