「前庭に集まった所員たち」という一枚の写真。
会田雄次、桑原武夫、貝塚茂樹、藤枝晃、樋口謹一、梅棹忠夫の6名が
玄関脇あたりに立って一服している姿が写っている。
( p103 カタログ「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」国立民族学博物館 )
うん。この写真を、また取り出して見ております。
写真下には、1967年2月と日付がありました。
梅棹忠夫著「知的生産の技術」は、何回読んでもわからない
わたしなのですが、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)
を読み。霧が晴れて足元が見えてきた感じがして嬉しかったのでした。
はい。それを再読していると、また一歩を進められる感じになります。
この藤本ますみさんの本のはじまりがふるっています。
「 1966年1月11日、一通の速達がわたしのところに舞いこんだ。
そのころ、わたしは福井県勝山保健所に栄養士としてつとめながら、
福井市郊外のアパートに住んでいた。
だれからきたのかと封筒をうらがえすと、
差出人は梅棹忠夫先生であった。
この、ちょっと風変わりな、ひらがなタイプの手紙が、
わたしを知的生産者たちの現場に近づけることになった。 」
はい。先の写真の面々は、1967年ですから、ちょうど藤本ますみさんが
「知的生産者たち」の現場にはいったころの顔ぶれということになります。
藤本ますみさんの本には、ちょっとした挨拶をかわす会田雄次氏がいたり、
それから、今日引用したかった樋口謹一氏が、袖触れ合う形で登場します。
では、樋口謹一氏が登場する場面。
「 おなじ西洋部の樋口謹一先生の研究室へうかがったときのこと、
用件がすんで帰ろうとしたら、樋口先生はわたしの顔をみて
さりげなく、こんなことをつぶやかれた。
『 梅棹さんとこは、常勤の秘書が二人もいて、たいへんですなあ 』 」
( p271 )
「 たしかに樋口先生のいわれるような秘書のつかいかたは、
大学の研究室ではめずらしいことではない。
『 この本の何ページから何ページまで、コピーしてきてくれ 』
『 この原稿、清書して、出版社に送っておいて。しめきりは
何月何日やから、それにまにあうように速達で 』
『 あさってまでにこれをタイプして、コピーは三部とっておくように 』
『 ちょっとタバコ買ってきて 』 ・・・・
こんなふうにして、秘書を動かしている先生はたくさんいらっしゃる。
樋口先生はそういうやりかたを念頭において、
梅棹さんはたいへんと思われたのだろう。
秘書が二人もいて、伝統的なやりかたでこまかい仕事の指示を出していたら、
樋口先生のいわれたとおり、ご自分の仕事ができなくなるにちがいない。」
このあとに、『 指示はしない 』という箇所がでてきます。
はい。今日は、この箇所を引用して反芻してみたかったのでした。
「 梅棹先生の場合は、新しい仕事をつぎからつぎへとひきうけて
研究室へもちこんでこられたが、仕事の趣旨と方針を説明したら、
あとのこまかいことはそれぞれの担当者にまかせてしまう。
やりかたは自分で考えよというわけだ。秘書にかぎらず、
人をつかうときの基本的態度として先生がつらぬかれていたのは、
『 指示しない 』ということだった。・・・・・
人は、指図によってはたらくときは、いわれたことしかしないし、
なかなかこころよくはたらけないものである。それよりも、
『 これこれのことをしなければならないが、どうすればうまくいくか、
自分で考えてやってください 』といわれたら、
元気が出て、『 やりましょう 』という気が起ってくる。
・・・・その結果、いくぶん疲れたこともある。ただし、
その疲れは嫌なものではなかった。好きでやっていたことだから、
精神的には充実したよろこびがあった。
先生がいわれた言葉を思い出す。
『 人間はだれにでも、能力はあるにきまってる。
それをどうやって発揮させるか、そこんとこが
わかっていない人が多いのではないかなあ 』 」( ~p275 )
はい。『 そこんとこ 』って?
藤本ますみさんの本を最初から読めば、
いわく言い難い『 そこんとこ 』が、順を追ってわかってきます。
再読すると、書き残してくれたことに、感謝したくなる一冊でした。