梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は、
毎回ひらくと、あたらしい発見があるのですが、今日は、
読書論に触れ、知的消費と知的生産を腑分けしている箇所から引用。
「 今日おこなわれている読書論のほとんどすべてが、
読書の『たのしみ』を中心にして展開しているのは、
注目してよいことだとおもう。
今日、読書はおもに知的消費としてとらえられているのである。
・・・知的であれ、それ以外であれ、消費はべつにわるいことではない。
知的生産とは、知的情報の生産であるといった。
既存の、あるいは新規の、さまざまな情報をもとにして、
それに、それぞれの人間の知的情報処理能力を作用させて、
そこにあたらしい情報をつくりだす作業なのである。
それは、単に一定の知識をもとでにしたルーティン・ワーク以上のものである。
そこには、多少ともつねにあらたなる創造の要素がある。
知的生産とは、かんがえることによる生産である。 」
( p10~11 「知的生産の技術」の「はじめに」 )
何回か、読んだはずなのに、そのたび、すっかり忘れていて、
何度も、新しい読み方を、読む方に想起させてくれる楽しみ。
はい。もうすこし続けます。
「 こういう生産活動を業務とする人たちが、
今日ではひじょうにたくさんになってきている。
研究者はもちろんのこと、報道関係、出版、
教育、設計、経営、一般事務の領域にいたるまで、
かんがえることによって生産活動に参加している
人の数は、おびただしいものである。
情報の生産、処理、伝達、変換などの仕事をする産業を
すべてまとめて、情報産業とよぶことができる・・・・
そして、情報産業のなかでは、とくに知的生産による部分が、
ひじょうにたいせつであることはいうまでもない。
・・・・・・
知的活動が、いちじるしく生産的な意味をもちつつあるのが現代なのである。
知的生産ということばは、いささか耳なれないことばだが・・・
人間の知的活動を、教養としてではなく、積極的な
社会参加のしかたとしてとらえようというところに、
この『知的生産の技術』というかんがえかたの意味もあるのではないだろうか。
・・・・・そういう人たちの範囲をこえて、すべての人間が、
その日常生活において、知的生産活動を、たえずおこなわないでは
いられないような社会に、われわれの社会はなりつつあるのである。」
はい。『知的生産の技術』は1969年に新書として発売されております。
何か、しごく真っ当で、正確な大風呂敷を聞かされている気がします。
引用した文のつぎには、こうあります。
「 社会には、大量の情報があふれている。
社会はまた、すべての人間が情報の生産者である
ことを期待し、それを前提としてくみたてられてゆく。
ひとびとは、情報をえて、整理し、かんがえ、
結論をだし、他の個人にそれを伝達し、行動する。
それは、程度の差こそあれ、みんながやらなければならいことだ。 」
( ~p12 「知的生産の技術」の「はじめに」 )
読み直すたび、あらたに違うことを思い浮かべるのですが、今日は、
引用した最後で、gooの皆さんのブログを思い浮かべておりました。