戦後の、大村はま先生はどうしていたか。
「 昭和22年中学が創設されました時に、
最初の生みの苦しみを味わった中の一人です 」
( p72 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )
ちょうど、その頃。大阪では、月刊詩文誌『きりん』の創刊がありました。
「昭和22年の秋、大阪の尾崎書房」が雑誌を出したいと申し出るのでした。
ここはまず、井上靖氏の文を引用。
「・・私(井上靖)は詩人の竹中郁に相談し、
小学生向きの月刊詩文誌がいいだろうということになって・・・
創刊号は翌23年2月に出た。・・・ 」
この井上氏の文「『きりん』のこと」には、
井上氏が小学生の詩に触れた場面が書かれております。
「 少し大袈裟な言い方をすれば、私はその夜、
たまたま小学校から送られて来た二人の少女の詩に、
感心したというより、何もかも初めからやり直さなければ
ならないといったような思いにさせられていた。・・・・
その二編の少女の詩の持つ水にでも洗われたような
埃というものの全くない美しさに参ってしまったのである。
・・・幼い字で書き記されてあって、大人ではこんな風には
書けないと思った。余分なことは一語も書かれていず、
水の中を流れている藻でも見るように、子供の心が澄んで見えている。 」
( p64~67 井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社・1982年 )
これについては、次に足立巻一氏の文を引用。
『きりん』はいつごろまでつづいていたのか?
「 1971年3月、通巻220号まで出ました。
途中休んだときもありましたけれど、
創刊以来23年間もつづいたことになります。
そのあいだ、竹中先生は毎月たくさんの子どもの詩を読み、
選び、評を書きつづけました。一度も休んだことがありません。 」
『きりん』の発行とはべつに、1950年から大阪市立児童文化会館で
毎月一回、子どもたちが詩を持ちよる『子ども詩の会』が開かれ、
竹中先生はその詩の一編一編を批評し、詩の指導につとめられました。」
この文のなかで、足立さんは、竹中氏の言葉を引用されておりました。
『 30数年にわたって情熱をそそいできた児童文化育成の仕事も、
ことしの3月をもって終止符を打った。体力の弱ったことが
その大原因であった。
2時間以上も立ったままで、子どもたちの注意をそらさぬよう
に話を進めることは、76歳にもなると辛(つら)いことだった 』
そして1982年3月7日、77歳で竹中郁は亡くなります。
足立さんは、竹中氏のこの言葉も引用しておりました。
『 自分みずからの詩作品を書いてゆけることも
しあわせの一つにはちがいないが、
日本のあちこちから集まってくる子どもの声、
清らかに澄んでしみ入るような詩の数々を毎日読み、
かつ選び出していく仕事は、他の何にもまして充実した時間だった 』
「 先生は第八詩集を『そのほか』と題されました。
子どもの詩を読むことが第一で、自作の詩は
余分のことだという考えから名づけられたのです。 」
( 以上引用は、竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」理論社の
最後にある、足立巻一の「竹中先生について」からでした )
うん。これだけでは、まだ曖昧な憶測を許すところがある。
ここは、竹中郁さんの立ち位置を示す言葉を、最後に引用。
それは、竹中郁・採集 「子供は見ている」(東都書房・昭和34年)の
竹中郁の『まえがき』にありました。
「 詩を書くためには、見つめなければならない。
見つめれば感じることができる。次に考えることができる。
見て書く、或は目以外の耳、鼻、皮膚、など五官をつかって書く。
こういう訓練は、あらゆる文化の分野に通じるものである。
小さい時の訓練は、或はその子供が造船技師になった場合、
或は政治家になった場合、必要に応じて発明や創案を生み
だしてくるだろう。
そのための『詩』の訓練なのだ。・・と、わたくしはいいたい。
子供は、或る時期のあいだ、何をみても何をきいても、
何をさわっても、詩にしてしまう時期がある。
長い短いは人によってちがうが、とにかく必ずある。
そして、その時期がすむと、けろりと忘れ去る。・・・・・
ここに集まった詩の作者で、
現に上級の学校へいっている者も多いが、
詩を書く習慣をもちつづけている者は殆どない。
しかし、他のものを書くとか、創造するとかいう能力においては、
小さい時に詩を書かなかった人より、はるかに大きい力を示して
いるふしがある。
つまり、小さいときに『詩の素』をたべて育ったらば、
その一生に狂いはないというのが、詩の教育の眼目なのである。
そこに尊い使命がある。・・・・ 」