詩だと思いこんでいたら『あとがき』でした。
こんな箇所がありました。
「・・記念会で・・
『 第一線を走っていると思っていたのに、
あるとき、ふと、自分は一周遅れだったことに気づかされ、
肩を並べているが実はいまは二周も三周もおくれているらしい。
だからゴールはまださきであると思う 』
などといった。
・・・伊東静雄さんが、
杉山は別の山にのぼってバンザイしているといわれた通り、
自分は一周二周おくれではなく皆と別の場所を走っていた
らしいという気がしてきた。 ・・・ 」
( p812 「杉山平一全詩集《下》」編集工房ノア )
はい。『二周も三周もおくれて』とか、『別の場所を走っていた』とか、
こんな詩人を紹介してみたくなりました。
重さ 杉山平一
ぴったりの重さというものがある。
少しの荷物は持つ方が快よいときがあるものだ。
手ぶらや、はだかでは 浮くようで、
取りつくしまがない。
足が地につくよう この悩みと悲しみを、
私は大切に持って歩く。
月 杉山平一
電車を降りると
ホームの屋根の上に
待ってくれている
月と出会うことがある
きょうは
ビルとビルの間から
心配そうに
私をのぞいてくれていた
あとひとつ、たまたまひらいた箇所に
開聞岳 杉山平一
昭和15年2月10日早暁
海上から打ち眺めた
開聞岳の眉目
という竹中郁の詩が仲々見つからない。
南方詩を集めた詩集「龍骨」に無く、
やっと、大戦後の「動物磁気」に、見つける。
晴れた夜、「海から生えたやうな傑作」と、
竹中郁が歌ったこの本州最南端の頂上に立つと、
ときに、南十字星の先端が地平線に覗くのが見えるという。
いまは、空が濁って、いよいよ見え難いかも知れない。
きらりと澄む竹中郁という星を失って、
濁っているのは空ばかりではない、と気がつく。
はい。読むたび、いろいろな詩があることに気づきます。
( ちなみに、詩の改行は、私の自由にさせてもらいました。 )
うん。
『伊東静雄さんが、杉山は別の山にのぼってバンザイしているといわれた』
この『別の山』が気になるので、もうひとつ詩を引用してみたくなります。
少し横のところを 杉山平一
言葉も銃弾と同じだ
やかましく やたらに
とび交っているが
めったに
当たるものではないのだ
当てようと思うなら
ここぞという
目標をしっかり定めて
その少し横のところを
狙ってぶっ放せば
手裏剣のように
心に深く突き刺さる
筈だ