和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

最初の2行が読みたい。

2023-02-16 | 本棚並べ
藤原正彦氏が、大村はまの作文指導を指摘されていました。

「 先生は・・・生徒の作文指導をしていくうちに、
  うまく書けた作文とだめな作文には、それぞれ
  書き出しに一定のパターンがあることに気づかされた。

  たとえば『夏休み』という題で書く時、
 『 明日から夏休みですが宿題が心配です 』
  などという書き出しでは必ずだめになる。

  そこで先生はそれらを型として分類されたそうである。

  実際、途中で書けなくなっている生徒に書き出しを
  二行くらい書いてやると、うまく書き続けることができるという。

  書き出しで作文全体の出来が大体決まってしまう、
  というのは大変な発見と思う。

  数学や物理学では、初期値が与えられると
  結果が完全に決まってしまう、ということがよくある。
  これの国語版と言える。・・・・           」

 ( p324 「かけがえなきこの教室に集う」小学館・2004年 )

生徒の作文を抱えて歩いていた大村はま先生。職員室の先生方の前で、
『作文の研究じゃいけないんですか!』と怒鳴ってしまった大村はま先生。

うん。ここに
「  実際、途中で書けなくなっている生徒に書き出しを
   二行くらい書いてやると、うまく書き続けることができるという。  
   書き出しで作文全体の出来が大体決まってしまう        」

とあったのでした。
ここまでくれば『 最初の2行が読みたい 』といいたくなります。
ここで、思い浮かぶのは週刊新潮を立ち上げた、齋藤十一氏でした。

その回想に、こんな箇所があります。

「 齋藤さんがタイトルを大切になさっていたことは、
  あまり知られていないことかもしれない。

 『 週刊新潮 』の編集長が野平健一になっても、
  そのあとの山田彦彌になっても、毎週の特集の

  タイトル4本か5本は、すべて齋藤さんが
  ご自分で付けられていた。
  特集だけはゲラもお読みになっていたと思う。
  そして、すべての作業が終わったあとの
  30分間ぐらいを使ってタイトルをつくられた。

  うまかった。読んでみたいと思わされるタイトルだった。
  ・・・特集の書かれている内容よりタイトルの方がセンスがあった。 」

       (  p86 「編集者齋藤十一」冬花社・2006年  )

これは、亀井龍夫氏の文のなかにありました。
もうひとり、石井昴氏の文は『 タイトルがすべて 』とあります。
最後にこちらからも、ちょっと引用。

「・・『 編集者ほど素晴らしい商売はないじゃないか、
     いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ 』
  
   『 俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ 』

   次から次に熱い思いを我々若輩に語りかけられた。
   齋藤さんの一言一言が編集者としての私には血となり肉となった。 」
                        ( p182~183 )

作文指導の大村はま先生と、
雑誌編集者の齋藤十一とを、並べての『重ね読み』。
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『 作文の研究じゃいけないんですか 』

2023-02-16 | 絵・言葉
昨日は、思いったって出かける場所がありました。
もどってきたらもうブログの更新をせず仕舞い(笑)。

一昨日、古本が届きました。「大村はま白寿記念文集」とあり、
題が「かけがえなき この教室に集う」( 小学館・2004年 )。
この目次をめくっていると、藤原正彦の3ぺージの短文がある。
はい。これを読んで、私はもう満腹。

藤原正彦氏の短文は、内容がこれでもかと、詰まっていて、
これは大胆カットしなければ、ここには引用できないなあ。
ここでは、『 作文 』に関連する箇所とりあげてみます。

作文といえば、大村はま先生は、講演で
信州の教育風土を語った中にこんな場面があったことが
あらためて思い浮かびます。まずはそこから引用はじめ。

「・・とうとう私は、職員室のまん中で20幾人かいる先生がたの
 まん中で――校長先生ももちろんおいでになっていました――
 『 作文の研究じゃいけないんですか! 』と、大声でどなってしまいました。」

   ( p20 大村はま「新編 教えるということ」ちくま学芸文庫 )


もどって、藤原正彦氏の短文に、『作文』が登場しておりました。
場面は、正彦氏と大村はまの対談に関連してはじまっております。

「 母(藤原てい)が県立諏訪高女に12歳で入学したのは昭和6年だから、
  大村はま先生は25歳だったはずである。 」 (p322)

正彦氏の文に、母ていさんの『作文』の話題がありました。

「 先生が本気で指導されていたことは、
  母の作文までよく覚えていることからも分かった。
 
  寄宿舎住まいの母が、週末に両親の元に帰る際には、
  祖父が途中まで迎えに来ることになっていた。

  早く着いた母が身を隠していると、祖父が
  『 ていはどこだ、いねーか 』とあちこちを探し回る。
  
  それが帰省の楽しみの一つだった、
  などというエピソードを聞かせていただいた。

  70年以上覚えているのだから、よほど真剣に
  生徒の作文を読まれていたはずである。・・
  このような・・作文指導と励ましがあったから、

  後に母は『流れる星は生きている』を書く気になったのだろう。
  母に刺激されて父(新田次郎)が書き始め、
  両親の影響で私も書き始めたから、

  我が家の文運はすべて大村はま先生の贈り物だったとも言える。 」
                             ( p324 )

この藤原正彦氏の短文の最後には、小さい挿絵が載っていました。
遠くに山々が前後してあり、その前に林がひろがり一番手前には、
草原のような道を帽子をかぶって髪をなびかせて歩く女性がいる。
腕には白いものを抱え、諏訪の山々へ向き合い歩いているのです。

はい。正彦氏の短文に、思い当たる箇所があります。
そこも引用しておくことに。

「 現に、生徒の作文を抱えて歩いていたら、校長に

 『 そんなものはストーブにくべてしまえ 』と

  いわれたとうかがった。真意は

 『 たとえ忙しくて作文をすべて読んでやれなくても、
   ぜひ今のままどしどし書かせてくれ 』なのである。

  手のかかる作文指導を続ける若い教師への
  ねぎらいであり励ましである。
  先生はこのように荒っぽく鍛えられたのだろうが、
  諏訪人のこんな物言いには大分悩まされたと思う。

 『 諏訪で育てられた 』と言われたのでうれしかった。
  先生の度量の大きさであろう。   」( p323 )


うん。挿絵のそば、藤原正彦氏の文の最後も引用しておかなきゃ。

「 ・・・大村先生にお会いして、
  教育界にもこのような独創的な人がいるのだ、
  このような先生に日本は支えられていたのだ、
  と感銘を受けた。

  帰途、大村先生の薫陶の最下流に立っている
  自分が誇らしかった。            」( p324 )


これだけ引用しても、引用したりない箇所が残ります。
藤原正彦氏の短文から、抜け出せない気分でおります。

はい。もうすこしこの短文のまわりをウロウロしてみます。
ということで、次のブログも、このウロウロがつづきます。


 





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