和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『諏訪のジャジャ馬』の息子。

2023-02-17 | 地域
大村はまの年譜には

昭和3(1928)年 3月 東京女子大学卒業
         8月 長野県諏訪高等女学校に赴任
昭和13(1938)年  府立第八高等女学校に転任

とあります。大学を卒業して赴任した諏訪という場所が
どういうところだったのかを藤原正彦氏が書いています。

「 大村はま先生は十年間、諏訪高女で教えられた。

  信州というのは特殊な地域である。
  田毎(たごと)の月にちなんで田毎の学者と言われる。
  
  人々は理屈っぽい。風呂たきおばさんが文芸春秋を読んでいた、
  などとよく言われる。教育にも熱心で、
  我が国最初の開智学校以来、信濃教育として名を馳せてきた。

  諏訪は信州の中でももっとも信州らしい所で、
  長所短所がここでは増幅されている。

  短所の一つであろう、諏訪人は誰彼かまわず、
  ぞんざいな言葉で単刀直入に斬り込む癖がある。

  ・・・信州の教育界では、
  諏訪で四年間勤めれば一人前になる、
  とよく言われたものである。

  ・・・諏訪の旧制中学校や女学校の教師陣は、
  今も語り継がれるほどの多士済々だった。・・

  私の母のような鼻っ柱が強くて生意気な者が多かったはずである。
  野武士とジャジャ馬の群の真っ只中に舞い降りた・・女教師  」

   ( p323 藤原正彦「我が家の文運」・大村はま白寿記念文集 )


藤原正彦氏は、平成15年の秋に、大村はま先生と対談します。
その場面も引用。

「 気性の激しい母を指導した大先生ということで、
  さすがの私も大分緊張した。・・・・

  ソファの先生は、私をどこか懐かしそうに眺め、
 『 ていさんの息子さんねー 』とおっしゃられた。 」( p322 )


注:
大村はま(1906年(明治39年)6月2日 - 2005年(平成17年)4月17日 )
は、98歳没となっております。これは亡くなる2年前の対談のときでした。 

 


コメント (2)
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