和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

関東地震の余震。

2024-03-04 | 地震
まずは、『安房震災誌』を紐解きます。
そこにある安房郡の関東大震災を引用。

「 地震襲来の状況を記せば・・・
  南西より北東に向て水平震度起り、
  続いて激烈なる上下動を伴ひ、
  震動は次第に猛烈となり・・・

  鏡浦沿ひの激震地方は、
  大地の亀裂、隆起、陥没、随所に起り、
  家屋その他の建築物又一としてその影を
  とどめざるまでに粉砕され、人畜の死傷限りなき・・

  続いて大小の余震間断なく襲ひ、大地の震動止む時なく、
  折柄南西の方向に恰も落雷の如き鳴動起り、
  余震毎に必ず此の鳴動を伴った。・・・・  」(第1編第1章p3~4)

 安房郡の地図を示しながら語られてもいます。

「 震動の大小は・・・館山湾に沿ふた・・・
  8町村が、最も激震で、その震動の勢いは、
  内湾から、一直線に外洋に向って東走してゐる。

  そして此の8町村に隣接した町村が之れに次ぐのである。」(第4章p90)


最初の方はこうもありました。

「 今回の大震災は、銚子測候所の報告によれば・・・・
  震源地点は安房洲の崎の西方にして、
  大島の北方なる相模灘の海底である。
  震動の回数は、初発より9月25日までに850回を算した。」
                     ( 第1編第1章 p2 )

安房郡からだけでなく、ひろく首都圏から見る余震については、
武村雅之著「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」(鹿島出版社・2003年)に
気になる記述がありますので、最後に引用しておくことに。

「 マグニチュード8クラスの代表的な地震の
  震源域(震源断層のある領域)・・・・

  太平洋プレートに伴うものとしては
  昭和27年と昭和42年の2つの十勝沖地震
  ( 平成15年には、昭和27年と同様の地震が再来 )、
  
  フィリピン海プレートの南海トラフからの潜み込みに伴うものとしては
  昭和19年の東南海地震と昭和21年の南海地震がある。

  相模トラフに関しては、言うまでもなく大正12年の関東地震がある。
  関東地震は、これらM8クラスで超一級の規模をもつ地震の中では、
  断層面の広さやすべりの大きさなど、決して最大規模のものではなく、
  むしろやや小さめの地震である。 」(p85)


この記述のあとに、関東地震の余震の特色を示しております。
はい。今回は、ここが肝心な箇所になります。

「 ・・・それにも増して(注:十勝沖地震と南海トラフと)
  関東地震による大規模余震の発生数は多い。

  M8クラスの巨大地震が発生した場合、
  M7クラスの余震が発生することはそれほど珍しいことではないが、

  関東地震の場合、その数は翌年の丹沢の余震を含めると
  実に6つに達する。つまり余震活動は文句なく超一級といえるのである。

  ・・・・伊豆半島と本州の衝突境界に近く、
  関東地震の本震の断層がすべった際に、
  特に大きくすべった周辺に大きな応力集中が
  起りやすくなることも考えられる。これらの条件は、

  一回の地震の発生で大きく変わるとは考えにくいため、
  将来再び関東地震が起こった際にも、同様に
  大規模な余震活動が起こることが十分考えられる。

  大きな地震の後には揺り返しに注意しろとよく言われるが、
  関東地震はその中でも特に注意が必要な地震だったのである。」(p85)


はい。私の視点は、首都直下地震の発生に関しての
貴重な資料として『安房震災誌』を紐解くことです。


  
  
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そこで福田恆存が考えた。

2024-03-04 | 前書・後書。
昨日の朝注文した「福田恆存の言葉」(文春新書)が
昨日の午後6時過ぎ届く。ありがたい。
あとがきは、福田逸氏。そのはじまり

「・・本書は東京・本駒込にあった三百人劇場に於いて
 昭和51年(1976年)3月から開講された、『三百人劇場土曜講座』の
 第一回から第八回までを収録した。・・・

 福田恆存らが結成した現代演劇協会傘下の劇団『雲』が
 前年分裂し・・稼ぎ頭だった俳優たちが、ごっそり抜けた・・

 殊に三百人劇場という建物の維持に苦労したわけである。
 そこで福田恆存が考えた企画の一つがこの『土曜講座』で・・

 毎回二人の講演を行い、恆存が後半を受け持った。ちなみに、
 第一回の客員講師は小林秀雄、
 第二回が田中美知太郎、
 以下会田雄次、矢島鈞次、藤井隆、
 高坂正堯、林健太郎、山本健吉と続いている。・・・・

 ・・・いわば、四苦八苦、あの手この手で劇場維持と
 劇団昴の公演継続に邁進したわけである。『土曜講座』は
 いわばそれらの嚆矢(こうし)となったわけだ。 」(p217~218)

次に、この講演がCDになっていたことを紹介したあとに
CDのよさと利点を指摘したあとに、

「 活字を追うという行為には、立ち止まって考えたり、
  読み直したりできる利点もある。読者に沈思黙考
  する機会も与えられるのではあるまいか

 ( ただし、現在は音声配信サービス『LisBo(リスボ)』
   で、この連続講演を聴くことはできる )。 」(p219)


はい。何か、こうしてあとがきやまえがきを引用させてもらっていると
よく、本の帯に書かれた紹介文を、あえて私がつくっているような
そんな気がしてきたりもします(笑)。

ということで、『はじめに 古びない警句』浜崎洋介の
それこそはじまりの箇所を引用しておきます。

「 本書に収められた福田恆存の講演は、
  昭和51年の3月から、翌昭和52年の3月までの
  1年間のあいだになされたものである。

  年齢で言うと、63歳から64歳の福田恆存による講演
  ということになるが、脳梗塞で福田が倒れるのが、
  その4年後の昭和56年であることを踏まえると、
  記録として残されたものとしては、これが
 『 福田恆存(つねあり)、最後の講演録 』
  だと考えてよさそうである。 ・・・・    」(p3)


つぎは、ゆっくりとでも、本文を味わえますように。

 
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