「安房震災誌」で、関東大震災の安房郡を読むと、
「・・死者負傷者は曾て人の経験したことのない多数に上り、
家屋は殆ど総て倒潰して、住むに家なきもののみであったのである。
即ち地震の為めに必要缼くことの出来ないものは、
同じ地震の為めに破壊されて供給することの出来ないものになって了った」
( p223 )
今ならば、家屋の倒潰から下敷きになった方を救出すべき日数は、
2~3日が生存の限界だとわかりますが、安房郡長はどうしたのか。
県庁へと急使を送り出したあとに
「無論、県の応援は時を移さず来るには違ひないが、
北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。
手近で急速応援を求めねば、此の眼前焦眉の急を救ふことが出来ない。
・・・そこで、郡長は平群、大山、吉尾等の山の手の諸村が
比較的災害の少ない地方であろうと断定したから、先づ此の
地方の青年団、軍人分会、消防組等の応援を求めることに決定した。 」
( p236~237 )
震災当日、大山村へ出張していた平川久太氏が、急遽郡役所へと
帰ってきて、郡長と会話を交わしております。そこでは、
大山方面から、順次北條へと帰る際の被害の状況が語られておりました。
平川氏の回顧には、さらにその後のことが綴られておりました。
「それから何するとなく廳員と共に働いて居ると武田さんが、
兎も角家へ一度帰って見給へと親切に云ふてくれたので直ぐに出かけると
・・・帰って見ると門の松の大木の下に悄然と立つて居た家内は
『 アッ無事で・・條子は潰されました 』
後は何んの言葉もなく只無言であった。
直に其の潰れ家の後の隙間から這ひ込んで見ると、
ナゲシのために圧死を遂げて居る。・・・
早く出さんと努めたが、何も道具が、ないのでなかなか出す事が出来ず、
やうやう四苦八苦して抱き出して・・・
其の夜は木の下に戸板を出して死体を懐き衛って居った。
電燈は勿論、ローソクも油も何もなく何処を見ても灯影は一つも見えない。
そうした恐怖に襲はれて居る折柄ツナミが来ると云ふ蜚語が
何れからか伝へられた。折も折、浜手の方に響く海の音は
一種異様にすさまじく聞える。其の時は慥にツナミが来ると思はれた。
けれ共其の時はどうする事も出来ない、此の上
海嘯に流さるるなら親子三人諸共に死を撰ぶより外に策はないと観念し、
木の下の暗の中に相擁して淋しく時を過した。
此の時は生の執着から離れ、欲望もなければ従って
悲しみも苦しみも何等の感じもなかったのである、
こうして大震災の第一日は過したのであった。 」
( p825 ~828 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
安房郡長は、急使を山間部の町村へと送ろうとします。
「・・先づ救援方を山間部の町村に頼むことが上策だ。
それには山間部から来てゐる小学校の先生を使者に頼むがよいと思ひ、
門第一課長を小学校へ行って貰ったが使者に頼むべき人を得ることは
出来なかった。
丁度其處へ税務署の直税課長が通りかかった。・・・・
『 君の所で独身で、怪我をしない人間は居ないか。
是非急使に行って貰ひ度いんだが 』
直接課長は考へた末、『 ある 』との事で、
久我といふ税務署の職員を選んで瀧田、佐久間、大山、主基等の
村々へ救援方要求の為、使者に立って貰ふことになった。・・・ 」
( p818~819 同上 )
「安房震災誌」の最後の方には、各表彰の推薦文が載っております。
そのなかに、安房郡北條町 久我武雄( 明治34年2月29日生 )
とあります。震災当時はというと22歳。
そこに、安房郡長の文なのだろう「功績顕著と認むる事実の概要」が
載っておりました。最後にその全文を引用。
「 大震災に依て稀有の大惨状を現出するや郡は直ちに
急を本県に報じ救援を求めたるも当面の惨状は
小時も放擲し置くを許さざるを以て
急に手近に応援を求むるの要あり
郡内平群、大山、吉尾等山間部は被害少なく求援に便なるを想像するも
郡吏員は既に救護の為め八方に奔走し
使者として適任者なく使丁、学校職員其の他に
人を求むるも遂に応諾するものなく大に苦心の折柄
偶々同氏のあるあり交渉中激震あり人々色を失ふの際
氏は快諾一番闇夜悪路を冒し約13里の道程を突破して、
平群、大山、吉尾等各町村に到り、
青年団、在郷軍人分会、消防組の出動を請ひたるに
何れも即夜動員を行ひ2日未明200余臺の来援を得て
死傷者の収容、救急薬品の蒐集、食糧の配給等に
努力せらる尚ほ之を端緒として引つづき
各町村青年団、在郷軍人分会等の活動を見る功績顕著なり。 」
( p343~344 「安房震災誌」 )