関東大震災のさなか、安房郡長・大橋高四郎はどうしてたのか?
「 余震は頻々として来り、
海嘯の噂は頻々として起り、
不逞漢襲来の叫は頻々として伝へられ・・ 」
海嘯の噂は頻々として起り、
不逞漢襲来の叫は頻々として伝へられ・・ 」
今回は『不逞漢襲来』のひとつ、鮮人騒ぎを取上げてみます。
「安房震災誌」には、船形から食糧掠奪に来るという掠奪騒ぎを沮止したという、
その状況を紹介したあとに、つぎの困難が立ちはだかったことが記録されております。
「又是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。
安房郡は館山湾をひかへてゐるので、
震災直後東京の鮮人騒ぎが、汽船の往来によって伝はって来た。
果然人心穏やかならぬ情勢である。郡では此の
不穏の噂を打消す為めにも亦た大なる苦心をした。
丁度滞在中であった大審院検事落合芳蔵氏も
鮮人問題には少からず心を痛め、東京から館山湾に入港した
某水雷艇を訪ひ、艦長に鮮人問題の事を聞いて見ると、
同艦長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであった。
そしてそれを郡長に物語った。物語ったばかりではない、
人心安定の為に自分の名を以て艦長の談を発表しても差支えなしとのことであった。
之を聞いた郡長は大に喜び直ちにさうした意味を記載して、
北條、館山、那古、船形に10余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。・・・・
此の掲示は初めは大に効果があったのであるが、
東京の騒擾が実際大きかったので、後ちに東京から来る船舶が、
東京騒擾の事実を伝へるので最早疑を容るるの余地がなかった。
そこで、一且掲げた掲示を撤去しやうかとの議もあった。
然し、郡長は艇長の談として事実である。
それを掲示したとて偽りではない。
而かも、之れが為に幾分なりとも、人心安定の効果がある以上、
之れを取去るは宜しからずと主張して、遂に其の儘にしておいた。 」(p221~222)
このあとには、大橋高四郎郡長の面目躍如たる、地元を叱咤する言葉がありました。
「兎角するうちに郡衙を去ること〇〇地方に鮮人防衛の夜警を始めた土地があった。
為めに青年団が震災応援の業に事欠かんとする虞れがあった。
加之ならず、人心に大なる不安を与へることを看取した。
其處で田内北條署長と共に、
『 此際鮮人を恐るるは房州人の恥辱である。
鮮人襲来など決してあるべき筈でない 』
といった意味の掲示を要所要所に出した。加之ならず、
『 若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖してゐるに相違ない、
宜しく十分の保護を加へらるべきである 』
とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。
要するに、斯うした苦心は
刹那の情勢が雲散すると共に、形跡を留めざることであるが、
一朝騒擾を惹起したらんには、地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。
郡長が細心の用意は此處にあったのである。
蓋し安房に忌まはしい鮮人事件の一つも起こらなかったのは、
此の用意のあった為めであらう。 」(~p223)
騒擾のなかに、我を忘れた人の中にあって
この言葉は、どのように届いたのでしょう。
「 刹那の情勢が雲散すると共に、形跡を留めざる・・ 」
そうした渦中で忘れられる記録が「安房震災誌」に記載されてありました。
これは、編者・白鳥健氏の文になるところでしょうか。