『安房震災誌』では、どのように安房郡長・大橋高四郎が、
震災指揮をしていったかを、これからたどりたいのでした。
その前に、もう少し郡長のエピソードを引用しておきます。
大橋郡長の談話にあったとあります。
「 郡長は、僅かな時間の余裕を得て、
見舞かたがた町村を巡視したことがあった。
・・・・ある村にゆくと無論小さなものではあったが、
半永久的なバラックを造ってゐた。バラックの職人はと見ると、
・・年の頃四十ばかりの細君が、屋根の上に登って、
藁屋根の下地に細竹を力まかせにかき付けてゐた。
その下には、六十余りの老媼が・・
踏段の上に力強く両足を下ろして、こまいをかいてゐた。
傍らを見ると十三四位と覚ほしき小娘が、
下の方から、そのこまい竹を一手一手に老媼に
取次いて、老媼の作事の助けをしてゐた。・・・・
そこで、郡長は、小娘に向って、
主人はどうしたかと聞くと、
『 父は隣家の手伝に行きました 』といった。
そこで、郡長は、一寸隣の屋敷に行って見た。
すると、四五人の男達が地震で潰れた家の柱や、
梁などを取り片付けて、其處に矢張り半永久的な
小屋を建てるのであった。・・・・
今度の大震災後の農村のバラックは、大抵斯んな風にして、
職人入らずに出来上がったものが多い。 」( p316~317 )
この情景と比較したいので、「大正大震災の回顧と其の復興」上巻にあって
流言蜚語がどのような不安と混乱とを醸成するのかの一例を引用してみます。
「暴徒襲来の蜚報」と小見出しがあります。
『9月3日か4日の事か』とあります。
50歳前後と覚しき土地の者が、
食料品奪取の目的で、暴民が大挙して襲来しつつあり、
『 私は町内各自の警戒を促し来れり 』と訴え出た。
「 変事来の通告を受けたる住民は、
悉く燈火を消し戸締を厳重にし、
婦女子子供老人を避難せしめた。
避難所と目ざされたるは事務所の裏手の旧郡役所跡であった。
各自は風呂敷包を背負ひ、
子供の手を引き、毛布をかつぎ、千態萬様、
ぞろぞろぞろと我等の事務所に来りて保護を哀願する、
暴動などあるべき筈なきを諭せども、
蜚語におびえたる町民、どうしても聞き入れない。
詮方なく裏手に休憩せしめた。
見る間に身動きも取れぬ満員振を示した。
一同も不安の思をなし今に喊声でも挙るかと心配そのものであった。」
( p894~895 )
これは、もし暴徒が食料品奪取に来る際に、すぐわかるよう
合図をつくって置いた事に起因した勘違いで
「 その襲来の合図・・即ち先刻乱打された警鐘がそれである 」
と、それを決めつけてしまった間違いによるものでした。
では、その警鐘の実際は、どうだったのか。
「先刻の警鐘は、館山町下町の火災の跡に残りたる余燼、
風に煽られ燃え上りたる為なるも、すでに大事に至らず鎮火せり」
との館山方面よりの報告があった。
この回顧の文は、さいごに、地元の50歳前後の男のことを
「 然し流言蜚語盛にして人心恟々たる折柄、
自警的に或種の合図をなすべき、約束をつくって置いた
事に起因することであって、あながち咎むべきではなかろう。
ただ彼に今少し沈着と度胸が慾しかった。 」 (p896)
つぎから、その流言蜚語に立ち向かわなければならなくなった、
安房郡長大橋高四郎の行動を順番に追ってゆきたいと思います。