戦後生まれの私に、分らないのは『御真影』に関する記述でした。
まずは関東大震災で倒潰した安房郡役所の記述に出てきています。
「然し火災も何時起るか知れない、海嘯も何時来らぬとも限らない。
不安といへば、実に不安極まる。そこで
恐れ多くも御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。
郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
県への報告も、青年団に対する救援の事も、
皆な此の樹下で計画したのであった。
そして昼の間は、何事が起っても、
それぞれ処理の途があると確信して、
郡長は檜の樹下に救護の事務に忙殺されてゐたものの、
夜に入ってからは、時々海嘯来の騒ぎが其處此處に高まって来た。
昼間の修羅の巷も、夜の幕が降ると、いはゆる『萬物皆死』とも
いふべき寂寞さで、何処にも点灯が一つ見へない。
物音とては、犬の遠吠も一つきこへない。・・・・
そして『 海嘯だ! 海嘯だ! 』といふ男女の悲調な叫びが、
闇を破って聞える。樹下の郡長と郡吏員は御真影に対して、
萬一を気遣はずにはゐられなくなった。・・・・ 」
( p232~233 「安房震災誌」 )
この『御真影』への態度が、もう私には分からなくなってしまっている。
けれども、『詔書』ならば、読めばわかります。
大正12年9月12日摂政名で発された詔書から、
その一部を、ここに引用しておきます。
「 ・・・・・朕深く自ら戒慎して已まさるも
凡そ非常の秋に際しては非常の果断なかるへからす
若し夫れ平時の条規に膠柱して活用することを悟らす
緩急其の宜を失して前後を誤り或は個人若は一会社の
利益保障の為に多衆災民の安固を脅すか如きあらんは
人心動揺して抵止する所を知らす朕深く之を憂惕し・・・・ 」
( p698~700 「大正震災の回顧と其の復興」上巻 )
安房郡長大橋高四郎は、まさにこの詔書にある
「 人心動揺して抵止する所を知らす朕深く之を憂惕し・ 」と同様
震災当日、安房郡の被災現場での大きな問題として対処しております。
昭和8年に出た「大正震災の回顧と其の復興」に
大橋高四郎の回顧談が載っておりますので、くりかえし、
それにまつわる箇所をあらためて引用しておきたいと思います。
「 吾々日本人がかかる際に最も気になるのは、御真影の安否だ。
一同は逸早く奉安室に赴き、無事なるを知って喜びつつ、
之を最安全と思はるる庭前の檜の老樹の上に奉遷してゐた。
そして俺はその檜の樹の下で頑張って
御真影を護りながら指揮し且つ計画を立てた。
夜に入って海嘯の噂さへ伝はったので、
御真影は庭の樹上から少し隔った隣村の阿夫利といふ
丘の上に奉遷することにした。
而して俺外数人が之を守護し奉った。 」
このあとに、こうあったのでした。
「 激震の当時に自宅で考へた俺の胸算用は、
現場へ来て見ると、より必要な或るもののあることを
忘れてゐるのに気付いた。
それは何かと云ふと、人心の安定といふことであった。 」
( p820~821 同上 )