安房郡役所隣りの北條病院は、関東大震災の当日どのようだったのか。
吉井栄造氏の回顧の文にこうありました。
「・・北條病院の庭内は見る見る内に死体重傷者を以て埋められた、
街は見渡す限り住家全潰して道路を覆ひ交通杜絶し電信電話鉄道は勿論不通である 」
( p824 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
安房郡役所で、安房郡長・大橋高四郎氏は、どうしたか?
「やれ困った。先づ救援方を山間部の町村に頼むことが上策だ。
それには山間部から来てゐる小学校の先生を使者に頼むがよいと思ひ、
門第一課長を小学校へ行って貰ったが使者に頼むべき人を得ることは出来なかった。」
( p818 同上 )
それでは、門第一課長が向かった小学校はどのような状況だったのか?
当時の北條小学校訓導小原時江氏の文が、館山市史にありました。
「・・校舎という校舎が全部倒潰して三角の屋根が地面を這っていた。
あたり一面広い原っぱになったような感じだった。・・・・
やや過ぎて負傷された同僚の姿が目に写った。
渡辺忠治先生は額を大きく切って血が真赤になっていた。
石井泰三先生は足をやられて歩行困難の様子、
岡田泰二先生は腰から下が倒潰した校舎の下敷になっている。
職員が集って救出にかかった。次々に起る余震に救出は中断された。
救出が終った時、川名先生が裁縫室の中に潰されているとの事、
声をかけたが全く返事がない。この救出にはかなりの時を要した。
裁縫室の一室に坐ったまま前こごみになり大きな梁を背中に背負っていた。
勿論絶命していた。
学校に残っていた生徒は高等科女性と3名だけだったが、1名は下敷のために死亡した。
大部分の生徒の下校後の事であったので不幸中の幸であった。
しばらくして、六軒町の方に火災の発生した知らせを受けた。
学校の周囲には火災はなかった。
海の方は何かごうごうとうす気味悪い音がしていた。
そのうちに潮が遠く沖の方へ引いたとの事だった。
津波の危険のある知らせを受けた。何名かの職員と
御真影を奉じて安布里山に避難した。
町に出て見ると立っている家は一軒もない。
相変わらず海はごうごうと鳴っていた。
町の人たちと蓮幸寺の庭で一晩野宿した。
夜も時々余震があった。一夜明けたが
津波の心配も薄らいだので学校へ帰った。 」
今回の最後は、北條町日誌の9月1日からの引用。
「小学校教員1名(川名時代)圧死 2名(若林、石井両訓導)重傷す。」
「助役は郡長・警察署長と急遽協議を遂げ知事に顛末を報告し、
軍艦の出動其の他適当の応援を求める急使を県庁に派遣す。」
「役場仮事務所を郡役所門前に、郡役所、警察署と合同にて開設す。」