『御真影』について、今の私に思い浮かぶ光景というと
たとえば神社の御霊(みたま)を神輿へ遷す行事でした。
これなら、神輿があるたびに私は見慣れている光景です。
安房郡長大橋高四郎が、震災当日の安房郡役所の倒潰を前にして
「 恐れ多くも御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。
郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
県への報告も、青年団に対する救援の事も、
皆な此の樹下で計画したのであった。 」
郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
県への報告も、青年団に対する救援の事も、
皆な此の樹下で計画したのであった。 」
( p232~233 「安房震災誌」 )
まずもって、心の安定を郡長の最優先事項として行動している姿などは、
つい最近ひらいた本の、はじまりにあった言葉が思い浮かんできました。
「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。
東北地域を襲った未曾有の大地震で、海外メディアは、
『 自然災害や混乱が起きた後に必ずある略奪 』が
日本では起きていないことについて、
驚きと称賛の声を上げていたものだ。
大地震や津波で多数の命が奪われ、寒さの中で
水道やガス、一部電気が止まるという惨状の中でさえ・・・・ 」
(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月)
ここに、東北の大震災と出てきておりました。
テーマの『安房郡の関東大震災』からは、離れてしまいますが、
東日本大震災の年に、たまたま発売日が同時となった文庫が2冊。
寺田寅彦著「天災と日本人」(角川ソフィア文庫・山折哲雄編)
寺田寅彦著「地震雑感・津浪と人間」(中公文庫・細川光洋編)
どちらも初版発行が2011年7月25日となっておりました。
ここでは、角川ソフィア文庫の山折哲雄解説から引用してみます。
解説の最後の方に、和辻哲郎の「風土」を紹介しておりました。
「和辻哲郎は日本の風土的特徴を考察するにさいして、
その台風的、モンスーン的風土については特筆大書して
論じてはいても、地震的性格については何一つふれてはいないのである。
これはいったいどういうことであろうか。和辻はそのとき、
数年前に発生した関東大震災の記憶をどのように考えていたのだろうか。」(p155)
こうして、解説は和辻と寺田寅彦との比較に着目しておりました。
それはそうと、山折哲雄氏はその解説のなかで、寺田寅彦の文を
直接に引用している箇所があります。それを孫引きして終ります。
「単調で荒涼な沙漠の国には一神教が生まれると云った人があった。
日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で
八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは
当然のことであろう。
山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあるのである。
それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。
また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は到るところの
集落に鎮守の社(もり)を建てさせた。これも日本の特色である。
・・・・・・・鴨長明の方丈記を引用するまでもなく
地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い
国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先
からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸み渡っているからである。 」
( p152~153 )
はい。コロナ禍で中止だった神輿渡御が昨年再開しました。
もう人数が少なくなり、子供会も解散したようですが、
子供会有志ということで子供神輿も昨年担いでいます。
7月の連休をつかっての神輿渡御なので、他所に出ている
若い夫婦も子供たちを連れて帰って来るようで思いのほか
昨年は子供たちがあつまり、それが印象に残っております。