関東大震災では、日本赤十字社千葉支部の活動記録がありました。
その記述が順番にならべてありました。
① 千葉支部構内臨時救護所
支部(本千葉駅前)構内に天幕4張バラック2ヶ所を設けて
臨時救護所を開き罹災避難者の救護に当った。
建造物内に収容をなさなかったのは強震に不安を抱く避難者を屋内に
収容するに適さざるのみならず萬一の場合を思ふからであった。
救護医員4名、看護婦19名、事務には主事以下6名之に当った。
重症患者にして身体の自由ならざる為収容したる者61名、
その他外来の軽症患者多数あり・・・・・
本救護所は重症患者を収容するを目的として9月1日夜以来
警察署、市役所、千葉駅、本千葉駅其の他より
重症患者を担架等にて運搬し来り、
その重き者は或は腕を或は足を切断したる等大手術を行った。
而して本所に於て救護したる患者の大部分は
本所、深川、若は浅草辺の罹災者であった。
9月1日開設し10月8日閉鎖した。
② 戸田臨時救護所
9月3日県下被害の甚しい市原郡戸田村に臨時救護班を派遣した。
救護医員1、看護婦2、書記1名で組織し、
携行の衛生材料は外傷治療品8点、内科治療薬品15点、
火傷治療薬品2点、繃帯材料5点であり、
治療人員30余名に達した。9月3日開設し即日閉鎖した。
③ 湊町臨時救護所
9月3日県下の被害多き君津郡湊町に臨時救護班を派遣した。
携行救護材料は戸田村救護所同断、
救護医員1、看護婦2。治療人員22名、9月5日閉鎖。
④ 北條町臨時救護所
9月4日県下安房郡中被害最も甚しい北條町に
第一回臨時救護班を派遣した。
班は救護医員1、看護婦2、書記1で組織し、
携帯材料は前記救護所と略同様で、
治療人員118名、9月10日閉鎖。
⑤ 佐倉臨時救護所
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⑥ 北條町臨時救護所 (第2次)
9月23日安房郡北條町に第2回臨時救護班を派遣した。
初め当支部は全力を挙げて此の方面の救護に努力せんとしたが、
千葉医科大学に於て9月4日以来同地方に大組織の救護班を派遣したから、
当支部の第1回救護班は一時之を引揚げたのであった。
然るに同大学の救護班は9月26日限り引揚ることとなったので、
同大学の救護班と協議の上、支部に於て之を引受け行ふこととなったのである。
救護医員3、看護婦10、書記1、傭人2で班を組織し、
収容患者30名、外来患者は日々50余名に達し、
取扱患者総人員1452名に達した。
携行衛生材料としては外傷治療薬品19点、眼科治療薬品2点、
内科治療薬品44点、繃帯材料5点、火傷治療薬品2点であった。
本班は9月26日開設、10月19日閉鎖した。
ちなみに、この第2回の日付を見ていると、派遣したのが23日で開設が26日とあります。
第1回の時も同様で、派遣したのが9月4日で、開設はそれより3~4日後かもしれません。
そのあとに、亀戸及緑町が載っておりますので、最後にそこからも引用しておわります。
⑦ 東京亀戸及緑町派遣救護所
9月2日千葉医科大学に於ては東京方面の救護の為出動することとなり、
本支部は医科大学と協力して救護班を亀戸小学校内に開設した。・・・
救護に従事したのは医科大学松本教授以下であって
毎日約20名外使用人20名計40名にて、2日夜は同校に宿泊し、
3日以降は千葉市より通勤した。取扱患者数8984名・・・
更に9月3日本縣県医師会と協力して救護に当ることとし
県医師会は東京本所区緑町に救護班を派遣した。
関川医師外医員20名、看護婦1名、助手(在郷軍人青年団)116名。
取扱患者数1764名であった。 」
( p346~353 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
うん。やはり最後は「安房震災誌」からも引用してしめくくります。
「地震の残した大惨事、大損害。
それは迚ても工兵の力をからねば、収拾することは出来得まいと思ったので、
県へ斯くと要請しておいたが、それも急速の間に合はない。
そこで、望みを郡内の青年団に託したのであるが・・・・
2日の正午過ぎに、又しても一大激震があった。
1日の大地震に比較的損害の少なかった長狭方面は、今度は激震であった。
そこで長狭方面から北條方面へ向け来援の途上に在った青年団は、
途中から呼び戻されたものもあった。・・・
且つ警戒の為めに応援意の如くならずして、苦心焦慮の折柄、
3日の朝になると、東京の大地震、殊に火災の詳細な情報が到着した。
斯くては迚ても郡の外部に望を託することは迚ても不可能である、
絶望であると郡長はかたく自分の肚を極めた。
そこで、『 安房郡のことは、安房郡自身で処理せねばらぬ 』
といふ大覚悟をせねばならぬ事情になった。
4日の緊急町村会議は実に此の必要に基いた。・・・・・ 」
( p277 「安房震災誌」 )