え~と。私のテーマは『安房郡の関東大震災』なのですが、
今回は、安房郡での日露戦争と関東大震災という視点から。
安房農学校は、大正11年に南三原村に創立されます。
関東大震災の1年後、大正13年(1923)9月1日には
その南三原村に『震災記念碑』が建立されています。
現在はその記念碑が、龍神社の境内に設置されており、
見ると『震災記念碑』の隣に『日露戦争記念碑』がある。
大山巌の書による『日露戦争記念碑』は、明治40年(1907)3月建立。
記念碑の裏側には、明治37∼38年の戦死者の氏名がありました。
日露戦争終結の18年後に、関東大震災が起っていたと気づかされます。
安房郡長大橋高四郎氏が関東大震災当日に、安房郡内の山間部の村に
急使を派遣すると、その日のうちに、すばやい対応があるのでした。
今回は、最後にその場面を、あらためて引用しておくことに。
9月1日の午後8時頃に大山村へ到着した急使が、
震災被害状況を伝えた後に、至急必要な物を確認し依頼します。
そのあとを引用。
「・・在郷軍人大山分会長塚越均一、青年団長宮崎徳造の両人は
東奔西走団員会員中自転車所有者を以て先発隊となし、
之れに衛生材料、脱脂綿、ガーゼ、アルコール、エーテル石灰酸、
葡萄酒等を取纏め各人に分与携帯せしめ
大山救護隊なる紙旗を箙となし、漸く11時頃急行を命じたるに、
夜中の悪路を厭はず2日午前1時18分に着し、救護隊第一着一番乗なりき。
順次徒歩のものもあり午前11時には154名参着せられたるに、
北條、館山、船形の3ヶ所に配置せられ・・・・
分会長塚越均一氏は北條町に於て総指揮官となり、
青年団長宮崎徳造氏は共に連絡をとり、
出動者食料弁当の焚出に従事し、
自宅前に4ヵ所の炊事場を設け
付近の人々の援助を乞い握飯を作り、
残暑なれども腐敗を恐れ朝昼夕の3食を
伝令の通知による人員数により不足を生ぜざる様に伝送したり。 」
( p935∼936 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )