桑田忠親著作集第1巻「戦国の時代」(秋田書店・昭和54年)
本文最後に、「武人の書風」(p336~344)があります。
そこから、印象深い箇所を引用。
「・・・・ここに紹介するのは、
桃山時代初期の天正13年(1585)の正月29日付で、
建部賢文(たけべかたぶん)という戦国末期に活躍した
書道の大家が、5人の息子のために書き残した書道の秘伝書である。
ただし、外題は『入木道教訓書』となっている。・・・ 」
はい。ここには、前書きと後書きとを引用しておきます。
前書きには、
『 筆道の事、若年より訓説をうけず、古法にもたがひ、流布。
世間の嘲りを喫するといへども、愚息に対し、
思趣のかたはし書きつくる条々 』
後書きには、
『 賢文、十歳の此(ころ)より在寺せしめ、
此の道に執心候といへども、
師跡を請けず、愚才およびがたきにより、
つひに道を得ることあたはず、すでに老年に及ぶ。
しかはあれど、在世中巧夫(くふう)せしめ候趣、
おもひすてがたく、自然、
子共の中に執心する事あらば、披見せしめ、
稽古すべきものなり 』
このあとにつづく、桑田忠親氏の文もすこし引用しておきます。
「これによると、建部賢文は、この書道の教訓書を
その息子たちのために書き残し、その中で
『 斯道(しどう)に志ふかい者がいたならば、
これに従って学ぶがよい 』といっている。
賢文の子供は、・・五男のほかに一女があったというが、
このうち、賢文の遺志を継いで、伝内流の書道を世に伝えたのは、
三男の伝内昌興であった。
この遺訓を賢文がしたためた時、昌興はまだ8歳の幼児であった。
しかし、昌興は年少14歳で、すでに手鑑(てかがみ)を書き残し、
豊臣秀吉に仕えて右筆となり、秀吉の朱印状にその得意の能筆を
振るっているほどだから、8歳当時はやくもその天分が現れていた
と思われる。それを父の賢文が認知し、おそらく昌興に将来に対する
嘱望を託したのであろう。・・・ 」
はい。肝心の書法の極意秘訣の箇条からも、
適宜引用しておわりといたします。
〇 筆もとはや過ぎ候へば、手跡おちつかず、筆力いづべからざる事
〇 真、草、行、仮字(かじ)にいたるまで、
ほそく、たはれすぎ、艶なるは、みな、よわみたるべく候。
弘法大師・尊円親王・定家卿の筆躰(ひつてい)、いかにも、
たしかに見え候事
〇 当座の消息は、手本書きに相違すべく候。
すこし墨薄に、よく心を取り静め、
字ごとに心を残し、一字一字に念をいれず、
なだらかに、これをあるべきの事
〇 扁(へん)と作(つくり)と、気をかへず、
おなじ心にかたらひ、字うつりへはやく心をつくべき事
注:毎日新聞社「書と人物」第3巻武人(昭和52年)のはじめに
桑田忠親の『武人の書風』の文が載っており、
そこには、小さいのですが「入木道教訓書」の
巻頭と巻末の写真が載っております(p8~9)