和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

書道の教訓書

2024-10-20 | 古典
桑田忠親著作集第1巻「戦国の時代」(秋田書店・昭和54年)
本文最後に、「武人の書風」(p336~344)があります。
そこから、印象深い箇所を引用。

「・・・・ここに紹介するのは、
 桃山時代初期の天正13年(1585)の正月29日付で、
 建部賢文(たけべかたぶん)という戦国末期に活躍した
 書道の大家が、5人の息子のために書き残した書道の秘伝書である。
 ただし、外題は『入木道教訓書』となっている。・・・ 」

はい。ここには、前書きと後書きとを引用しておきます。
前書きには、 

  『 筆道の事、若年より訓説をうけず、古法にもたがひ、流布。
   世間の嘲りを喫するといへども、愚息に対し、
   思趣のかたはし書きつくる条々 』

後書きには、

 『 賢文、十歳の此(ころ)より在寺せしめ、
  此の道に執心候といへども、
  師跡を請けず、愚才およびがたきにより、
  つひに道を得ることあたはず、すでに老年に及ぶ。

  しかはあれど、在世中巧夫(くふう)せしめ候趣、
  おもひすてがたく、自然、
  子共の中に執心する事あらば、披見せしめ、
  稽古すべきものなり 』

このあとにつづく、桑田忠親氏の文もすこし引用しておきます。

「これによると、建部賢文は、この書道の教訓書を
 その息子たちのために書き残し、その中で

『 斯道(しどう)に志ふかい者がいたならば、
  これに従って学ぶがよい 』といっている。

 賢文の子供は、・・五男のほかに一女があったというが、
 このうち、賢文の遺志を継いで、伝内流の書道を世に伝えたのは、
 三男の伝内昌興であった。
 この遺訓を賢文がしたためた時、昌興はまだ8歳の幼児であった。
 しかし、昌興は年少14歳で、すでに手鑑(てかがみ)を書き残し、
 豊臣秀吉に仕えて右筆となり、秀吉の朱印状にその得意の能筆を
 振るっているほどだから、8歳当時はやくもその天分が現れていた
 と思われる。それを父の賢文が認知し、おそらく昌興に将来に対する
 嘱望を託したのであろう。・・・  」


はい。肝心の書法の極意秘訣の箇条からも、
適宜引用しておわりといたします。

〇 筆もとはや過ぎ候へば、手跡おちつかず、筆力いづべからざる事

〇 真、草、行、仮字(かじ)にいたるまで、
  ほそく、たはれすぎ、艶なるは、みな、よわみたるべく候。
  弘法大師・尊円親王・定家卿の筆躰(ひつてい)、いかにも、
  たしかに見え候事 

〇 当座の消息は、手本書きに相違すべく候。
  すこし墨薄に、よく心を取り静め、
  字ごとに心を残し、一字一字に念をいれず、
  なだらかに、これをあるべきの事

〇 扁(へん)と作(つくり)と、気をかへず、
  おなじ心にかたらひ、字うつりへはやく心をつくべき事


注:毎日新聞社「書と人物」第3巻武人(昭和52年)のはじめに
  桑田忠親の『武人の書風』の文が載っており、
  そこには、小さいのですが「入木道教訓書」の
  巻頭と巻末の写真が載っております(p8~9)
 

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