わらべ歌を、いつか読んでみたいと思うのですが、
何だか漠然として捉えどころがない感じがします。
くらべて、京のわらべ歌には手応えが感じられる。
というので、京と、わらべうたとで関係しそうな
題名の、安い古本があるとまず題名買いをします。
今回もそうでした。白川淑著「京のほそみち」(編集工房ノア・2013年)。
副題に「 あるきまひょ うたいまひょ 」とあります。
著者名に覚えはありませんが、そこはそれ題名に惹かれました。
どうやら、この白川さんというのは、詩人のようです。
そのエッセイらしい。ご自身のことを語っております。
「父も夫も転勤族で、何度か住居を移らされた。
結婚してからでも、はじめに大阪、ついで奈良、
大阪、神戸、福岡、神戸といった具合に、いくつかの町を経験した。
結局、わたしの60年の人生の中で、心から安心して
抱かれた土地は、ふるさと京都しかないと言えるだろう。
祖父母、両親ともに京都人であり、
この地から教わった生き方の物差しを、
京を去った後も、ずっとかたくなに変えることはできなかったのだから。」
( p42 )
神戸にいたときに、震災を経験されております。
「 神戸市中央区、山裾のマンションで、わたしは震度7を体験した。
幸いにも家族は無事、家屋も一部損壊ていどで済んでくれたが、
父が用意してくれた嫁入道具など、日常の電気器具も含めて、
ほとんどの家財は処分せざるを得なかった。・・・・ 」(p132)
パラリとひらくと曽祖父と祖父と父のことが載っております。
最後には、そこを引用しておしまいに。
「 わたしの祖父は、老境に入ってからこの(安養寺)弁天さんの堂守り
をしていました。一人息子でちょっとした男前で上背もあり
お小遣いにも恵まれ、気ずい気ままに大きくなった人でした。
環境もあったのでしょうか、早くから祇園街で遊ぶことを覚え、
そのうえ淋しがりやで賑やかなことが好き、遊ぶ度に沢山の
人を呼び集めて振る舞うので、近所ではマルイチのアホボン
と呼ばれていたそうです。
・・・京都市がまだ上京区と下京区の二区しかない時代に、
下京を抑える事業(ハイヤー業)を営み、地域のお世話も
していた曽祖父にとっては不肖の息子でした。二代目が事業に
ふさわしくないうえに、昭和初期の大恐慌と円タクブームも手伝い、
時勢に乗り換えられずに『マルイチ自動車』は倒産いたしました。
その後、安養寺さんからのお誘いで、弁天さんの堂守りを
させていただくことになりました。初めての就職といえるでしょうか。
宵っぱりだった人ですが、早朝より起きて作務衣姿で
境内をきれいに掃き清め、晩年はすがすがしい生き方でした。
祖母と二人でひっそりと暮らしていましたが、ここで、
ぎおんおとこは息をひきとりました。73歳、
わたしの22歳のお誕生日(7月18日)でした。・・・・
三代目の父は、事業に向かない文学青年でした。
学生時代には、学内の文芸同人誌を出していたような人でしたが、
事業が倒産してからは、志を捨てて一介のサラリーマンになったのです。
――むかいの≪玉喜≫さんのお女将さんが紹介してくれはった
会社へ入ったんや—― なんと呑気な時代だったのでしょう。
京都人は、もともと転宅を嫌います。
――宿替えは夜逃げのときだけ――と思っていたのに、
大阪へ転勤命令が出たのです。
今考えると笑いたくなるほどの大騒ぎでした。
そのとき、高校二年生だったわたしは、転校を嫌って、
とりあえず、円山の祖父母のもとでお世話になることにしました。
暗いオレンジ色の電灯の下に、祖父母と小卓ひとつだけの夜。
中京で家族6人賑やかに住んでいた頃でもあり、
夜はぞっとするほど寂しいものでした。
時折、しゃらんしゃらんとお参りの人が振る
鈴の音が聞こえてきます。夜更けて一人、
試験勉強などをしていると、ほうほうと梟の啼き声が
追いかけてきます。仙人ならぬ尼さんになったような気分でした。」
( ~p21 )
はい。京のわらべ歌を読みたいと思っていたら、あにはからんや
京の生活をたどることとなりました。これはこれで京の覚え書きの味わい。
さっそく、思い浮かぶ、京のわらべ歌はというと、
坊さん 坊さん どこいくの
あの山越えて お使いに
わたしもいっしょに 連れてんか
お前が来ると じゃまになる
カンカン坊主 クソ坊主
うしろの正面 どなた