桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」のはじまりは
『大名と御伽衆』。まず「御伽衆について」という4ページの文。
はい。私はこの箇所で、もう満腹。
すこし腹ごなしを兼ねて、引用してみます。
「 御伽(おとぎ)というのも、
御咄(おはなし)というのも、
すべて敬称である。
しからば、伽(とぎ)とは何であろうか、
伽とは、その語源に至っては詳らかでないが、
字のごとく、人が加わることである。
すなわち、人が大勢集まって眠らずに夜を過ごすことである。
戦国時代以前には、単に通夜の意味にのみ用いられたらしい。
通夜には種々な場合があって、
一般にいえば、庚申待(こうしんまち)とか、
武士でいえば、戦陣の夜警などである。
そして、かかる際の通夜すなわち伽ということを
妨げるのは睡眠であり、その睡眠を克服するには
咄(はなし)によるほかない。
咄によって伽を遂行するのである。
従って、伽をするということは、咄をすることを意味し、
この両語は遂に混用せられるに至ったのであろう。
現在でも、山口県などでは、茶話(ちゃばなし)のことを
茶伽(ちゃとぎ)と言っているようである。
戦国時代には咄が大いに流行した。その起源は、
なんといっても、戦陣の際の伽にあったと思われる。
・・・・ 」 (p12)
戦陣といえば、そういえば、衆議院選挙の最中ですね。
ここでは、つい選挙と戦陣とを結びつけたくなります。
ユーチューブで、さまざま御伽衆の語らいが聞けます。
桑田忠親氏は御伽衆の資格をこう指摘されておりました。
「 まず第一に、咄巧者、すなわち話術に巧みであること、
第二に、その咄に適応する体験と技術の所有者たることを
必要としたらしい。
特殊な技術のあることは、それのみで御伽衆の資格となる場合が多いが、
御咄衆としては、体験があっても肝心の咄そのものが下手では困るし、
いくら咄巧者でも体験の伴わない、聞きかじりや、作り咄では、
これまた値打ちが少ない。 」 (p14)
ユーチューブでは、高橋洋一氏の話を私はわりかし聞いている方です。
安倍晋三氏から電話がかかってきたとか、出向いたとか、
高市早苗さんから電話があったとか、現在の御伽衆のひとりに、
高橋洋一氏をあげてもよさそうな気がしております。
咄は訥々としておりますが、実務経験が豊富で、数理に明るい、
こういう御伽衆をそばに先陣をすごしている、
選挙という明暗を、御伽衆の語らいで聞いている気分になります。